〇東海道「海の渡し」・桑名
かつて東海道は熱田神宮から「七里の渡し」と呼ばれる海上の道を津かい、ここ桑名から再び陸路をとるルートとなっていました。船旅は3時間程で名古屋城や御嶽山などの絶景を楽しめ、そして船旅の客が最後に目にするのがここ桑名城でした。三重県の北端に位置する桑名は長良川・揖斐川・木曽川の三河川が合流する要地で水陸交通の要衝として栄えていました。豊臣政権時に天正19年(1591)に一柳直盛が入城し、現在の城の基礎となる存在を築き、関ヶ原合戦後は東海道の要衝として徳川譜代大名が必ず入る地としてここは譜代大名の出世城の一つとなったのでした。慶長6年(1601)に徳川四天王である本多忠勝が10万石を持って入城、ただちに近世的城郭へと大改修工事を行い、51基の櫓、46基の多聞櫓、水門三か所を持つ大城郭へと仕立て上げたのでした。彦根に置かれた井伊家と合わせてここが徳川家にとってのいわば豊臣警戒網の要衝であったのです。その後は久松松平家が入り、海に面した扇状に開いた姿から「扇城」とも呼ばれ、「海道の名城」とまで讃えられる存在として東海道では名古屋城と共に重要な存在でした。天守は存在し、本丸の北東に位置していましたが元禄14年(1701)の大火で焼失、以降再建されることはありませんでした。最後に入った大名が久松松平家で幕末の藩主である松平定敬は美農高須藩の出身で、会津藩主松平容保の実兄でした。京都守護職についた容保に続いて京都所司代となった彼は兄と常に行動を共にして、「一会桑」ユニットを形成。(一はもちろん一橋慶喜)幕末政治史において重要な存在であったのでした。しかしきたる戊辰戦争において桑名藩は会津藩と共に朝敵認定され、定敬は分領のある越後柏崎に移動して以降も兄と共に東北において新政府軍に抗い続けたのでした。私がもっとも好きな兄弟コンビでもあります。さて一方の国元では意見が分かれましたが、結局くじ引きによって開城降伏が決定。その後、開発の波と共に城跡の遺構の多くは失われ、今では一部石垣と広大な水堀だけが往時をしのばせます。
 
〇現在は広大な水堀と共に
桑名城はJR・K鉄桑名駅から東の方へ20分ほど歩いた地点に有り、現在でも公園となっています。幸い平地であり、桑名の町自体も碁盤の目状に綺麗に整地された町であるので、迷う心配はありません。
三の丸外堀跡
桑名城の石垣は四日市港の資材として利用され、ほとんど残っていません。ここはかつての城跡の石垣を偲ばせる貴重な場所です。今も船が各所に停泊しており、かつての水城の姿を思い起こさせてくれる存在です。
本丸跡は九華公園として整備されており、今では三重県指定史跡となっているのです。それにしても本当に広大な水堀で20メートルを超える規模で日本全国でも広い水堀はそうはないです。
辰巳櫓跡
この櫓は戊辰戦争時に開城降伏した際の形式的処置として新政府軍によって焼き払われていました。
櫓跡には大砲のレプリカが残っていました。
九華公園全体図
神戸櫓跡
ここはかつて伊勢神戸城の天守が置かれており、江戸時代以降も櫓として存続していました。
桑名城絵図
 
〇アクセス
JR関西本線桑名駅から徒歩20分
 
「桑名城に狼煙が一本・・・」