〇鳥羽伏見の戦いの時の決断
淀城と言えば、やはり鳥羽・伏見の戦いでの「戦線離脱」が有名でしょうか。
淀城の歴史は、関西を代表する河川である淀川の変遷と共にありました。秀吉以前には、淀川の水運はこの淀や山崎などがある宇治・木津・桂の三川が合流する辺りでした。有名な淀殿の「淀」というのはこの「淀」の城を与えて住まわせたことから着ています。しかしその後、伏見城を築き宇治川を改修した秀吉は淀などの湊を廃止させて、伏見に集中させ為一旦廃城となりました。
寛永2年(1625)徳川秀忠はかつての淀城から少し離れた現在の地に、松平定綱に命じて築かせました。丁度宇治川の南岸にあり、伏見と浪速を結んで行きかう船を監視する位置にあったからです。その天守は宝暦8年(1758)落雷で焼失、以降は再建されることはありませんでした。
鳥羽・伏見の戦い当時、10万石の淀藩は譜代大名稲葉正邦が入封しており、当時正邦は現役の老中として江戸にいました。鳥羽・伏見の戦い開戦当初からも重要な存在として旧幕府軍からも重視されていたのですが、慶応4年(1868)1月5日のことでした。
既に旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いの緒戦で大敗を喫して後退に後退を重ねており、幕府軍本営は自軍の劣勢を立て直すために淀城に入って体勢を立て直そうとしていました。
が、ここで淀藩は幕府軍の入城を拒否
既に前日から淀城には新政府からプレッシャーがかけられており、京都留守居の岡柳之助に新政府側の尾張藩主・徳川義勝(正邦の義兄)から中立を守るように行ってよこし、更に三条実美や薩摩藩からも圧力をかけられており、藩主不在の淀城では家臣達が遂に苦渋の決断を下したのでした。
 激高した旧幕府軍の一部が大手門を破って城内に入ったために大手門守備の責任者であった田辺治之助と言う藩士が自刃する事態が発生し、失望した旧幕府軍は城下を焼き払い、八幡・橋本方面へと退却したのでした。明治になり、先の三川合流地点がもっと下流へと移動したために、水城としての機能を喪失して、現在では淀城周囲は閑静な住宅街となってひっそりと残っています。
京阪本線・淀駅
かつては水運の要衝であった淀の地も現在では十九までしか停車しない駅となっています。この時期は高架化の工事でこの地上ホームもまもなく無くなる予定でした。
既に閉鎖された地上駅部分
ここから歩いて5分ほどで
淀城公園に着きます。まさに三つの川が合流する水運の要に位置する水城がぴったり来ますね。
現在では本丸石垣が残るのみ
すぐ傍に京阪本線が通った時に淀城の遺構も完全に破壊しつくされるところでした。この時期に保存運動が起こり、最後の本丸部分を守られたのは重畳と言うべきでしょう。
穴蔵式天守台石垣の入口付近・・・でも施錠されている!!入れない
京阪淀駅と天守台石垣
かつての水城の面影を残す水堀も一部のみしか残っていません。
城下も鳥羽・伏見の戦いの時に焼かれたためにいまとなってはかつての街並みを残す場所も無い有様でした。ところが近年では淀駅高架化を機に城の復元作業が進められているそうです。今後に期待ですね。
 
〇アクセス
京阪本線淀駅から徒歩5分
 
「淀城に狼煙が一本・・・」