〇米沢~仙台の間で
宮城県北部大崎市にある岩出山城は元々は「岩出沢城」という名でこの地の大名であった大崎氏の家臣である氏家氏の居城でした。しかし、大崎氏が豊臣政権から改易され、その後発生した大崎・葛西一揆で伊達政宗が裏で糸を引いていたことが判明すると、秀吉は伊達家を米沢か東北の旧・大崎葛西領に国替えを断行。その結果、天正19年(1591)ここが伊達家の新たな居城となり、当時の奥州仕置きを担当していた徳川家康の命により、徳川家重臣・榊原康政が改修の普請工事を担当して、政宗に引き渡され、この時に「岩出山城」と改名されました。
 もっとも政宗がこの城にどれだけいたかというと、実際に城にいた時間はほんの数か月くらいだったといわれています。というのもこの期間、伊達家にとっては危機の連続で、文禄・慶長の役による出兵、秀次事件への連座、関ヶ原戦役での領土拡大のための陰謀、と政宗自身が引き寄せた危機の連続で本領を留守にしている期間が長く、しかも関ヶ原戦後の慶長6年(1601)に仙台へ本拠地を移転して、「城」としての歴史を終えました。この後、岩出山城は政宗4男の宗泰を祖とする岩出山伊達家の「要害」として明治維新まで続きました。
 
〇政宗の第2の城?
岩出山~新庄を訪問したのは今から数年前の春のこと、東北新幹線と陸羽東線の乗り換え役である古川で宿泊して、朝一に出発します。
数駅ほどで岩出山駅に到着
ここから歩いて15分ほどの小高い山が岩出山城です。
現在では岩出山城跡は「城山公園」となっており、上まではアスファルト道路が敷かれていました。
歩行者用道路
堀切
内門石垣

岩出山城跡・城山公園案内図

見た感じですとやはり公園化による改変が激しく果たしてどれだけ旧状をとどめているか心もとない。

二の丸広場

伊達政宗像

この像、実は仙台城にあった2代目伊達政宗像が岩出山に移されたものです。仙台城址には戦前、初代・伊達政宗像がありましたが、太平洋戦争に伴う金属供出によって失われ(ただし、胸から上は現在も残っている)、戦後になって高度経済成長期を迎えると新たな像を建設する声が高まり、1953年に彫刻家柳原義達氏に作成されたのが

伊達政宗公平和像

である写真の像でした。セメントで乳白色、有名な騎馬に乗った甲冑姿ではなく平服、しかもまるで西洋人のような風貌(もしかして遣欧使節を送ったことを反映か?)・・・とここまで書いたらわかりますが、実は当時の仙台市民からも

「政宗らしくない!」

という声が上がり、結局この像は1964年にここ岩出山城に移され、その後3代目として現在の漆黒の政宗騎馬像となるのでした。

 
すぐ下にはSLが展示されたSL公園があります。
本丸跡・・・といってもここも公園化が激しく、しかも「城跡」としての案内も何も無い!というのがつらい所です。
南の腰曲輪跡
 
岩出山の街並み
本丸部分よりも更に上部にある部分へと昇ります。
こども広場
さて案内図にはこの奥に空堀があるとなっていたのですが、残念ながら当該部分は藪がひどく時間切れとなったこともあり、さきほどの駅に戻ります。
途中で鳴子温泉駅にて下車
ここで下車した理由は言うまでもなく、東北の名湯の一つである「鳴子温泉」にて入浴するため。駅前からすぐそばが温泉街になっているのがありがたいところ。5分ほど離れた場所に木造の共同浴場で150円と非常に安い温泉「滝の湯」で一風呂浴びて体を温めて再び出発
陸羽東線の車両は専用にペイントされた色合いで独特なのが旅情を誘います。
4月初頭なのにまだこの辺りは雪で一杯でした・・・
 
〇アクセス
JR陸羽東線岩出山駅から徒歩25分
 
「岩出山城に狼煙が一本・・・」