〇上杉謙信と対戦した本庄市の居城
越後国下越地方の有力国人領主である本庄氏が居城としていたのが村上城であり、村上を領する者は代々ここを居城として明治の廃藩置県まで続いたのでした。戦国時代には本庄繁長は永禄11年(1568)に武田信玄に呼応して、上杉輝虎(謙信)に叛逆し、城際まで攻め込まれましたが、12年2月に和議を結んで降りました。御館の乱では景勝に味方して、新発田重家の乱でも景勝方の与党に与しています。その後、天正16年(1588)に繁長は庄内へと進行し、最上と交戦。越後勢が庄内を制圧したのですが、これが惣無事令違反として秀吉の怒りを買い、繁長は本領没収となり、奈良へ蟄居となりました。その後、繁永は会津国替えの際に帰参を許されてこの地に戻ってくることはありませんでした。
その後は近世には村上氏、堀氏、松平氏などが入国して、享保5年(1720)以後は譜代大名・内藤氏のもとで幕末維新まで続きます。
〇越後戦線での同盟軍最後の勝利・中条攻防戦
村上藩は地理上の関係からも奥羽越列藩同盟に加盟していました。無論、これは他の中小藩と同様確固たる信念からではありませんでしたが、米沢・庄内といった同盟の主導藩に隣接する位置にあっては否応もありませんでした。さて慶応4年7月中旬、長岡周辺で膠着状態となっていた状況を打破すべく、黒田清隆(薩摩)山田顕義(長州)率いる新政府軍は後方の新潟への上陸作戦を準備していました。米沢藩でもこの新政府軍による上陸作戦を察知して、警戒部隊を編制していました。しかしWWⅡでもフランスへの上陸作戦を決行しようとする連合軍に対して守るドイツ軍はノルマンディーかカレーかで大激論の末、兵力分散・指揮系統が滅茶苦茶になるというぐちゃぐちゃ状態となってしまったように海上における制海権を掌握した軍隊がどこに上陸するかを事前に予想するのは至難の業でした。米沢藩も上陸地点は岩船郡になると予想して、そちらで水際迎撃する作戦を取ったのでしたが、新政府軍はその予想から外れて新潟の北方10キロ、阿賀野川河口付近の太夫浜に1000名もの将兵が上陸、この方面の新発田藩は既に内応を約束していたので、新政府軍はほとんど抵抗を受けないまま新潟港へ進軍しました。新発田藩転向の影響を受けて他の下越で同盟加盟藩である三根山、村松両藩も降伏。最早一刻の猶予もない窮地に陥った同盟側は米沢藩、庄内藩、そして村上藩の3藩による反攻作戦を開始しました。8月7日新政府軍の拠点となった中条へ攻勢をかけます。この時中条を守っていたのは新発田藩と広島藩でしたが、この猛攻の前に退却。中条の戦いは越後方面における同盟軍最後の勝利となったのでした。しかしその勝利も僅かな蟷螂の斧でしかなりえず、既にこの時、新潟港、そして長岡城は陥落、越後方面の同盟軍は総崩れとっていたのでした。かくして諸藩は越後から退却の途につき、村上藩は孤立状態に置かれたのでした。8月11日、新政府軍は村上城への総攻撃を開始。この時、藩内では主戦・恭順の両派が激論を交わされていました。ことここに至り、最後の評定が行われ、恭順派の代表である江坂衛守を抗戦派藩士が斬りかかろうとした時に、家老の鳥居三十郎が制して
「帰順せんとする者には思うに任せ、あくまで抗戦せんとする者は村上城下の決戦を避けて戦場を羽越国境に求め、自ら指揮を執る」
と裁断を下し、200の藩兵と婦女子を従えて、村上を退去したのでした。藩としての名分を守り、城下の街を救うための苦渋の決断でした。この時に城は火災で炎上して、村上は新政府軍の占領下におかれましたが、戦火で破壊されることは免れたのでした。ここに越後方面における同盟勢力は一掃されて戊辰戦争最大の激戦である北越戦争は終結したのでした。その後、鳥居ら抗戦派は羽越国境で庄内藩と共に国境防衛で奮戦。なおこの時、帰順した村上藩士も新政府軍として参戦しており、同じ藩士同士が相争う悲劇も発生していました。その後、鳥居は抗戦派としての責任を問われて、切腹に至ります。
〇山の東西で全く違う姿を見せる城
米沢での散策を終えて再び米沢駅へと戻り、昼に米坂線で新潟まで向かいます。
米坂線は新潟県坂町と山形県米沢を結ぶローカル線です。それでも流石に大会社JR東日本、車両も新しいタイプとなっていました。
もっともこの席、実を言うとクッション部分が少なくちょっと硬いのが難点。やはり昔ながらのボックスシートの方が良かったかなぁ・・・
出発まぎわに山形新幹線「つばさ」が入線
辺り一帯を黄金の穂で覆われた水田地帯を通り過ぎて新潟まで向かいます。もう収穫の時期は近い。
途中今泉駅にて山形フラワー鉄道線との乗り換え待ち。
中間の有人駅・小国駅にて一時外へ出てみました。
こうして3時間近くの列車旅の末、坂町から羽越本線で村上まで向かいます。
村上駅にて下車
村上は山形との県境に近い町で温泉への玄関口となります。
駅隣の観光案内所にて情報収集。目指す村上城までは遠いのですが、歩いていくことにします。
麓部分までで25分
山に近づくにつれて昔ながらの城下町の色彩が強くなります。
村上城登山口
麓には観音像が安置されていました。
さてここからは七曲り口と呼ばれる登山口ですが、幸い途中までは広い緩やかな階段状となっていますので登るのにはそれほど苦労せずに済みます。山城は市内では絶景スポットであるために地元の方も頻繁に訪れていました。
それでも流石に荷物抱えたままの登城は厳しく、途中で地元の方が「ふえ~、それで登るの?」と多分半ばあきれ顔で笑っていました。くそ!やはり駅前のコインロッカーで預けるべきであった。
さて続日本100名城に数えられた村上城ですが、「城」という人工構造物の宿命である故か近年では自然災害と経年からの浸食によって城自体が危機に晒されています。現在でも一部崩落があり、近年では近年まれにみる大型台風や豪雨、そして地震という連鎖で本当にどうなるのでしょうか・・・西日本では今年に入って多くの山城で道の崩落、倒木による立ち入り禁止があるだけ気がかりな状況です。
調練場跡
なおここも一部エリアが立ち入り禁止となっていました。
村上城の特色としては山の東西で全く異なる姿を見ることができる点にあります。
海に面した西側は近世城郭として石垣や櫓のある江戸時代の城である一方、東側は戦国以来の遺構が残り、「土の城」としての姿を良く留めています。
御鐘門跡
出櫓跡の石垣
ここは村上城石垣の中でも一番の圧巻です。
黒門跡
それにしてもここも崩落のひどさがまだ青ビニールに覆われた状態で残っています。
本丸部分の高石垣
平櫓跡
そしてようやく本丸跡に到着
9月下旬でしたが今年もまた暑すぎる・・・
本丸入口となる門跡
本丸内
本丸石垣上からみた村上市街
天守台石垣
ここが標高135メートルの城山頂上となります。
遠く日本海までよく見渡せます。
埋門跡
ここからは中世遺構散策コースになります。
帯曲輪跡
馬冷やし場の池
坂中門跡
最後に村上市街から見た村上城跡
ここからだと村上城の石垣が綺麗に見えます。
〇アクセス
JR羽越本線村上駅から徒歩25分で登城口、本丸まで20分
・観光案内所にてパンフレット配布有
「村上城に狼煙が一本・・・」










































