○ドイツとの別れ、ポーランドの不安
旅の7日目は午前中の一箇所を除いて、ほぼ鉄道での長距離移動に費やす1日となります。さて今だからこそ白状しますが、実は私この時点で心が折れかけてこのまま日本へ帰国しようかなどと考えていました。一つには旅の3分の2が経過して、行きたかった所も回れたので、もういいんじゃないかという逃げ、そしてもう一つはこれから行くポーランドに対する恐れでした。ドイツについては事前に調査、および言語についても最低限必要な言語や読み取りはできるのですが、実はポーランド語はまったく駄目で、果たして言葉もろくに分からぬ地に対して本当にうまくやれるのか?という不安がありました。かてて加えてドイツは先進国として日本と変わらぬ社会水準および治安状況の良さで安心感があったのですが、ポーランドの場合はリサーチ不足で情報が致命的に足りなかったのでまるで目隠ししながら森の中へ入り込もうとしていたのでした。途中、LCCサイトでベルリンから日本への飛行機をっとスマホに手が出かかったのですが、
「そもそも命を落とす覚悟で行くと言ったのは誰だ!!」と不安を拭い去るようにしていったのでした。
さて今回の旅地はドイツ・ポーランド国境となるオーデル川流域の小さな町・ゼーロウを回ってから、一気にポーランド首都・ワルシャワ、そしてさらに列車を乗り継ぎ、南部の古都・クラクフまで709キロを行くというかなりの長距離行軍。クラクフの到着が22時過ぎというかなり移動時間に費やす1日となります。これ日本で言えば
京都から北陸経由で仙台まで行き、そこから東北新幹線で東京まで行くって位かなりの強行軍となる予定だったのですが・・・
 
1945年春のオーデル川流域で第2次世界大戦欧州戦線の最後の激闘が繰り広げられていました。
オーデル川、ここはドイツ側にとっては東方から迫るソ連軍の大攻勢を防ぐ最後の防衛線でした。
そしてその中でも重要な存在であったのがゼーロウ高地です。
19世紀、ドイツの小説家・詩人であるテオドール・フォンターネは『マルク・ブランデンブルク』でゼーロウ高地をこう形容しています。
「ゼーロウ高地からの眺めはわれわれをして神の祝福を感じせしめる」
しかし1945年4月のゼーロウ高地は地獄と化していました。
1945年4月16日、ソ連軍はWWⅡにおいて最終フィナーレとなるドイツ首都ベルリンへの攻勢を開始しました。オーデル川沿いに展開するソ連軍とドイツ軍の戦力比はほぼ10:1。最早長期にわたってここを防衛するのが絶望的なのは誰の目から見ても明らかでした。防御戦の名手ハインリーチ上級大将率いるヴァイクセル軍集団はここゼーロウ高地において2日に及んで巧みな防御戦でソ連軍の勢いを食い止めたのでした。先の絶望的な戦力差を考えれば、たとえ消えゆく蝋燭の光のようなものだとしてもこの戦いは事実上「第2次世界大戦ドイツ最後の勝利」といってもいい戦いでしょう。
朝一番のベルリン中央駅(Hbf)
ベルリンは長らく分断の影響で、ターミナル駅がそれぞれ「東」と「西(ツォー)」駅の2つに分かれており、長距離列車なども2つになっていました。もっとも西の列車は当然ながら「東ドイツ」領域を通過するので厳しいチェックを受けていたのですが。そんな中で統一の流れで、新たにその中央部に開設されたのが「ベルリン中央駅」
ワルシャワ、プラハ、ウィーンなど各ヨーロッパ諸国との国際列車が行きかうホームの中でひっそりと数両のRB(普通列車で目的地へと向かいます)に乗車して、目的地へ向かいます。途中で車掌のおばちゃんの車内検札があったのですが、パスに記入した行先を見てビックリした顔で私を見つめ「行き方分かる?」と質問(話しぶりから推測)したので「エヴァースヴェルデで乗り換えます」とスクリーンショットした乗り換え案内を呈示して返答。まあそりゃあ外国人観光客が一人で行くような場所ではないからね、無理もないです。
エヴァースヴェルデ駅にて1両だけの気動車に乗り換えます。ここで売店で飲食物購入しておきます。ゼーロウ周辺は流石に何もないでしょうし、しかもこの後は長距離の鉄道旅になる。ドイツの鉄道のありがたいところは小さな駅でも必ず「人」がいるところ。鉄道会社の人の案内があって、そしてキオスクなどの売店が開いている。日本だと小さな駅だと何もない、「人」もいないなんてザラにありましたのでこの人の多さは何かあっても大丈夫という安心感がありました。
車窓からは平原にぽつりぽつりと牛が放し飼いにされる長閑な光景が広がります。
ゼーロウ駅到着
2時間に1本の割合普通列車が停まる小さな無人駅です。
目指す場所は駅から歩いてすぐの場所にあり、実は市街地よりすぐそばにあったのが意外でした。ゼーロウは人口5500人で観光名所は高地にある博物館以外には無い町です。またここからバスで20分ほどのヴリーツェンという街には、第2次世界大戦直後に多くのドイツ人をチフスから救い、今なお現地で尊敬される日本人医師である肥沼信次氏の墓があります。時間があれば(もう少し会話能力があれば)ここも訪れたい・・・
ソ連軍の車両、対空砲などが置かれた展示が出迎えてくれます。残念ながら今日は月曜日で休館日でしたが、ゼーロウ高地やその後のベルリン戦、戦後のゼーロウの街などの展示がされています。
その上には「英雄的に戦った」ソ連軍兵士の墓となっています。ドイツ軍兵士の墓は置かれていない所に戦犯国に対する率直な感情と言えるかもしれません。戦後、ソ連は東ドイツに大兵力を駐屯させ、公式的には東ドイツでは「我々はソ連の「おかげ」でナチスの支配から「解放」してもらえのだ、今の社会主義ドイツを「守って」もらっているのだ」という建前でした。そして駐留する基地周辺では騒音や公害、そして兵士の乱暴狼藉に悩まされ(この辺はいずこの国であっても変わらない)住民が抗議するとソ連軍の基地司令はこう言い放ったそうです。
「戦争に勝ったのは我々か?それともお前らなのか?」
今となっては穏やかな田園と森林風景が広がるのみですが、1945年4月16日ここは圧倒的なソ連軍がまさしく赤い津波の如くおしよせた激しい戦闘の跡地でした。ゼーロウ高地はオーデル川沿いの平原を容易に視認でき、その一方で平原にいる者からは高地上を見ることはできません。
首都ベルリンを守る最後の天然の要害であったのです。
そしてその頂上にはソ連によって建立されたソ連軍兵士の像と記念碑が置かれています。
そしてあの先が今はこれから向かうポーランド領となります。
私が来た時にも付近の観光客らしきドイツ人が何人も来て同じく周辺を散策していました。それに交じりながら、かつての時代に思いを馳せ、そしてこれから世界はどうなるのだろう?という不安はよぎります。少なくとも私が見聞した範囲においてはドイツでは日本と変わらぬ平和な世界が広がっていました。テレビで報道されるような移民と極右の活動活発による衝突といった物騒な場面もなかった。あるのは平和な国の光景そのものです。日本にだけ閉じこもっていては分からなかったことも多かった、その意味で私は今回ドイツへ来たことをいささかなりとも後悔はしていません。
さて長くなりましたが、そのまま再び列車で次の乗り換え駅へと向かいます。
フランクフルト駅
・・・といっても旅行初日のフランクフルトではありません。
フランクフルト・アン・デア・オーダー(オーデル河畔のフランクフルト)

ドイツ西部の大都市であるフランクフルト・アム・マイン(マイン河畔のフランクフルト)が経済的かつドイツと世界との玄関口として栄えているのに対して、こちらのオーデル川のフランクフルトもかつて交易で栄えていました。しかし戦後、オーデル・ナイセ川を境として川の向こう側がポーランド領となり、フランクフルト市も対岸のエリアがポーランド領となる結果により、縮小してしまいました。

 

〇国境?それは何?

さて実はここで懸念すべき問題が。実はこの段階で私、持っている通貨はユーロのみでポーランド通貨であるズウォティ(PLN)を用意していなかったのです。ポーランドはまだ欧州共通通貨であるユーロを採用しておらず、両替はすべてカントルと呼ばれる両替所で行うので大丈夫とガイドブックにあるのですが、ワルシャワ到着は19時を超える予定。果たしてそんな時間に空いているのか?そんな基本的な疑問を解消できないもどかしさがあります。こんなことなら日本で一定額を用意しておくべきだった・・・それにしてもこういう時はやはり共通通貨があればメンドクサイ両替もしなくて済むのにポーランドよ早くユーロにユーロ圏に加入してくれ・・・などど虫の良い考えを思ってしまいます。

ベルリン-ワルシャワエクスプレス
ドイツ首都ベルリンとポーランド首都ワルシャワを結ぶ国際列車です。今でも機関車と客車という情緒ある雰囲気を持ち、両都市を5時間以上かけて走る列車です。(それにしても5時間・・・日本でもう今ではそんな距離を走る列車はごくわずかしかない)座席はすべて6人掛けのコンパートメント式で3人ずつが向かい合う形式です。後でこれのおかげで悩まされる結果となりましたが・・・
さてフランクフルト・オーダー駅を出ますとすぐに走る川が
現在のドイツとポーランドを分かつ国境となったオーデル川を越えていきますと
そこはポーランド領!国名の由来となった「ポーレ(平原)」の名の通り、一面の平原が車窓越しに移ります。(いやこの辺は戦前ドイツ領だったのですがね・・・)
それにしても国境を越えた、というのに余りそういう感覚がわかない。EU諸国間では「シェンゲン協定」加盟国間では移動の自由が保証され、国境管理が無いというメリットがあるのです。日本のようなEU領域外の市民でも入る時にはチェックを受けますが、それ以降同じ加盟国同士なら自由。まるで隣町に行くかのように気軽さで外国と行き来できる・・・というのは日本ではピンときませんが、複数の国を旅行する者にとっては極めて便利な話です。
ヨーロッパは一体となることで一つのパワーにしようとしている。今は歪みが生じつつありますが、今後もこのような統合の流れになるというのが私の予想です。そしてさらば、ドイツよ!やはり私にとって今回、初めて海外を目にしたことで初めて分かったことも多かった。現在、西側陣営ではお世辞にもまともな人間とは言えない政治指導者で満ち溢れていますが、ドイツは決してそのような潮流に乗ってほしくない。今極右政党の伸長などドイツでも暗い話題があふれていますが、それでも第2次世界大戦という苦難の歴史を背負うドイツの人々ならば、決して同じ過ちを繰り返さずに乗り越えられると信じています。

Um Schwierigkeiten zu überwinden!(困難に打ち勝て)

 

ポーランドに入るとやはり光景というか雰囲気がドイツとは違う「東欧」らしさが感じられます。
 
〇「ワルシャワ恐怖の一夜」事件
さて途中まで私の座席コンパートメントは20代くらいのアメリカ人男性旅行者の4人ほどが相席でした。彼らは物静かで静寂に列車の進行とともにあったのですが、途中ポズナニで彼らが下車すると一変しました。一気に地元ポーランド人らしい人のビジネスマン、主婦、老婆と様々な男女で満席となったのですが、私の向かいがどうも親子らしいポーランド人のヒゲ中年と若い男性が一緒になったのですが、この2人めちゃくちゃフランクリーなのはいいとして頻繁に出入りする、二人して笑い声が非常に響く、そしてこちらにもお構いなしに話しかけてくる、というありがた迷惑な時間となりました。いや話しかけてくるのはうれしいのであれなんですが、一応英語で会話していますが意思疎通に自信のない人間としては頻繁に話かけられても困るのですよ、もうジャパニーズスマイルで誤魔化すしかねぇ!
おまけにヒゲ中年は頻繁に飲酒しているものだから、終盤にはもう何言ってるのか分からねぇ・・・とまぁそんな時間が3時間も過ごしました。
さて列車は途中までは5分程度の遅れであとはおおむね時間は時刻表通りに進んでいたのでこのままいけばワルシャワでの乗り換えに20分あるのでまぁ大丈夫と楽観していました。ところがワルシャワに近づくにつれ、だんだん停車する回数は増えていき、とうとうワルシャワ西駅に到着するころには25分遅れという事態に。ここで急いでクラクフ行きの列車に乗り換えようとしたのですが、
向こうは定刻通りに発車してしまっていた・・・・
どうしよう、もうこの列車に乗れなかったらホテルのチッェクイン期限時間までにはクラクフに行くことはできない。
気を取り直してワルシャワ中央駅にて下車。ここで駅構内のカントル(両替商)にユーロからPLNに換金して(営業時間結構長いんですね)
とりあえず何とか宿泊先を探すために前後策を練ります。
「大丈夫、この程度のトラブルはこれまで何度か経験してきたし、そのたびに乗り越えてきた。今回も何とかなる・・・」
・・・・・
1時間後
・・・・・・・
完全に手詰まりとなってしまった
何しろここは首都の中心部。駅近くのホテルは超高級ホテルだし、安いホテルを見つけても「空きはない」と断られるし、最後の頼みの綱であったインターネットカフェも「外国人お断り」と拒否られてしまうし、もうこの時の私は完全に手詰まりとなって半泣きの顔になっていました。
話し言葉も文字も何もわからない世界・・・そんな所で完全に孤立して一夜を過ごす恐怖・・・それよりもどうするのか、未知の国での深夜を屋外で過ごすという恐怖・・・・
 
22時になって結論を出さざるを得ませんでした。
野宿決定
まずは駅から離れた場所でできる限り人通りの少なそうな場所。そして身を隠すような茂みがある場所を彷徨して探し出しました。それにしても不審者として冗談抜きで警察に通報されたらどうしようかなどど、言葉も分からない土地でのストレスがマッハになった瞬間でした。そして結局工事現場横の公園の茂みに身を隠して夜が明けるまでジャングルに身を隠すゲリラ兵のごとく身を潜めることにしました。人の足音が聞こえる度に心臓に悪いダメージが与えられながら、「早く去ってくれ」と祈ってました。途中でビクッとしたのが0時くらいに高校生くらいの男女が公園で何か話しているとき。嘘やろ?こんな時間に?しかもこちらに接近してくる、まさか気づかれたのか・・・・などと絶対絶命の危機。幸い1時間ほどしたら去っていきましたが、次に襲い掛かってきたのが冷気でした。ここまで猛暑に悩まされて殆ど役に立っていなかったパーカーがここで初めて機能しましたが、それでもこの寒さの中では時間の経過がまるでスローモーションのように感じられてしまいました。早く時間よ経ってくれ、どうか頼む・・・
 
震えながら身を縮めて数時間、4時50分もう限界に達した私はついに動き出すことにしました。ワルシャワ中央駅の始発が動き出すのは5時過ぎ。今なら早朝に出て行った散歩者のごとく振る舞い、中央駅までのフラフラになりながら向かったのでした・・・・
 
こうしてこの旅行で最大最悪の危機を何とか乗り越えることができました。今回の教訓は一つ

 

海外旅行では日が暮れる前にホテルにチェックインしましょう!!

それとやはり基礎の会話能力と基本言語ぐらいはマスターしてからにしましょう!!