JR久留米駅前にて駅の観光案内所にてパンフレット入手
ブリジストン工場のある三の丸跡
大手口と冠木御門
本丸の正門であり、虎口は内枡形ですが左折れの為に城兵が身体の前面を敵に曝すことになり、防御には不利でした。
太鼓櫓
時を告げる太鼓が設置されていた三重櫓で、本丸石垣は押し寄せる敵を側面攻撃するため、張り出しや屈折が多くなっています。
坤櫓には現在は有馬記念館があります。
有馬記念館は、昭和34年に久留米市制70周年を記念して、設立されたもので展示室では有馬家ゆかりの歴史資料や美術工芸品が展示されています。
ここでも戊辰戦争の展示が興味を引きました。久留米では尊攘派志士として真木和泉が有名ですが、久留米藩では「佐幕」が藩論でした。しかし、慶応4年(1868)に尊攘派が復権すると、これまで久留米藩政を担い、富国強兵政策を推進してきた藩の指導者10名は「御国是の妨げ」という理由で処分されました。これが久留米では「殉難十志士」でしたが、彼らは同時に開明派として有名で薩摩の黒田清隆もこの処分をして「将来の損失」であると嘆かせるほどでした。なお他に久留米藩では戊辰戦争時には特に西洋艦7隻を保有していました。これは国内では薩摩・佐賀・土佐に次ぐ保有数でそのため、戊辰戦争での従軍とは別に「朝廷御用」として新政府軍の艦船による海上輸送を担当していました。これも「殉難十志士」の遺した遺産と言えるでしょう。幕末のイデオロギー論争はかくいう形で人材を葬り去るほどで、「尊攘派」=革命の志士と呼べるのかどうか少なくとも正義一辺倒のように語るのは大いに問題でしょう。
社務所前に続日本100名城があるのですが、こちらに「注意書き」の形で「久留米城址は私有地(篠山神社社有地)であり、マナーをお守りください」との警告が貼られていました。一体どんなトラブルがあったのでしょうか。
篠山神社拝殿
こちらは東郷記念館
「東郷」とはあの東郷平八郎のことで、この建物は久留米出身の実業家が熱心な東郷崇拝者で大佐のころ愛用していた書斎を移築させたものです。
乾櫓
久留米城はこの北面部分は土塁状となっておりました。この部分は筑後川に面しており、その分防御が固める必要性が無かったためでしょうか。
丑寅櫓跡
月見櫓跡
二の丸部分はグラウンドとなっていました。
巽櫓跡
蜜柑丸
二ノ丸部分
久留米城跡は本丸部分のみが城の遺構が残っている状態ですが、まだ久留米市街地に石垣や土塁、堀跡などが断片的に残っています。
久留米城は永正年間(1504~21)に土豪が築いた篠原城が淵源で、戦国時代に大友宗麟や竜造寺隆信が争い、しばしば城主が交替しています。当時の城は砦か居館程度の小規模なもので現在の久留米城の始まりは天正15年(1587)のことでした。
この年、豊臣秀吉の九州平定後に毛利秀包が3万5千石で封じられ、その後、関ヶ原合戦で西軍に属したために改易。田中吉政が筑後領主となるとここを市場としました。田中氏が無嗣断絶となると代わりに有馬氏豊氏が21万石で入り、4代もの改修の末にようやく城は完成したのでした。


























