〇古い中世城館が復元される
四国最大の都市・愛媛県松山市のシンボルと言えば伊予松山城ですが、実はその奥にもう一つ城があります。ここの城主はかつて水軍で頭角を現し、やがてここが伊予国の守護の本拠地となった城であり、松山へ行くと松山城と湯築城の2つの城を訪れることができ、しかも他にもたくさんの観光スポットがあり、1日では到底全部は回れません。必然的に何度も訪れることになりましたが、今回がその最終章となります。来島城を早朝早くに訪れた後、再び波止浜港へと戻り、再びJR予讃線で松山へと向かいます。
途中、伊予北条駅にて上りの特急しおかぜと待ち合わせ。四国は鉄道路線はほとんど特急輸送がメイン。普通列車だと頻繁に待ち合わせで時間待ちになることがしばしば。
松山駅到着
JR松山駅
松山駅は遠距離輸送の乗客がメイン、市内の移動は伊予鉄道「松山市駅」がメインとなります。
市内の移動はやはり路面電車
松山は高知と共に路面電車が走る都市です。道後温泉行は10分間隔で運行しているのでこれに乗ってゆっくり進みましょう。
途中で「坊ちゃん列車」とすれ違い
道後温泉の手前、道後公園にて湯築城の土塁が見えてきました。でもせっかくなんで終点・道後温泉駅まで進みます。
道後温泉駅
飛鳥の湯
今回はここで一度熱い湯舟に浸かります。
湯築城趾は現在は道後公園として整備されており、公園としての側面と、そして古い城館を復原されたスペースに分かれています。
そして誰もが気軽に入れる無料の空間で、ゆっくり散策できました。
まずは外堀土塁
いこいの広場
庭園
搦め手虎口
道後公園駅からすぐの入口
今でも虎口と土塁の形状が残ります。
湯築城資料館
ここも無料で入館でき、湯築城の歴史資料と展示が充実していました。また販売資料も多数あり、いずれも200円~500円の安価で販売してくれる施設でした。
資料館展示の復元図
そして復元された土塀と門、武家屋敷
発掘成果をもとに間取りを推定して、当時の工法で復元されたものです。
土塀
武家屋敷の1棟目
台所
そして当時の武士の風景を再現した空間、これは連歌の会をイメージしたものです。
この辺り一帯は家臣団居住区であり、建物などの復元がなされており、
全体的に一乗谷を想起させる中世の館の空間となっていました。
武家屋敷2
内側土塁
庭園区・上級武士居住区
身分の高い上級武士の居住区と推定されるエリアです。
土塁上
土塁内部の展示室
土塁は一部補強の為、石積みがなされていました。
この穴は土坑(ゴミ捨て穴)を復元したもの
ここは内堀と外堀がもっとも狭くなる空間で外部からは視認しづらいように巨大な土塁で遮断されていました。
大手口跡
こちら東側は完全な公園空間となっていました。
石造湯釜
この巨大な湯釜は河野通直による温泉の効験の刻文が残る貴重な文化財です。
展望台までは予想していたよりもかなり急な坂道でしたが、、比高30メートルの丘山は徒歩5分で登れます。
展望台から見た松山城
外堀
湯築城は市街地の中にあって城全体の縄張りを完全に残す城で、周辺には子規博物館、そして道後温泉や古代や中世にさかのぼる寺社も多く存在し、かつての松山のもう一つの中心である城であったことが分かります。現在調査されているのは武家居住区を含め3分の1であり、まだ大半の状況が不明ですが、今後調査が進み、中世城郭のモデルとなれるよう祈っています。
〇250年以上の松山の中心
中世伊予国の守護であった河野氏はかつて源平合戦の折、河野道信が源氏方に味方して平家滅亡に功績をあげ、伊予国における統率権を獲得したのが始まりでした。承久の乱では一時没落するものの、通有が元寇で活躍し、その後南北朝時代にかけて足利将軍家と結びつき、近隣の大内・大友・毛利氏など中国・九州の大名と同盟や縁戚関係を通じて、伊予国守護の地位を確立したのでした。湯築城は南北朝時代(14世紀前半)には築かれ、本拠地となったのは14世紀末のことと推定されます。その後、天文4年(1535)には河野通直によって、二重の堀と土塁を持つ堅固な城郭へと改修されました。また村上海賊衆とも縁戚関係で強い結びつきを持って、瀬戸内海に大きな勢力を伸ばしていたのですが、村上氏が離反したことで衰退。その後、豊臣秀吉による四国征伐で、河野氏は小早川隆景に城を明け渡し、ここに湯築城と河野氏の時代は終わりを告げたのでした。
〇アクセス
伊予鉄道市電「道後公園駅」から徒歩すぐ
・湯築城資料館
開館時間 9:00~17:00
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
資料館にてパンフレット配布と書籍販売あり
「湯築城に狼煙が一本・・・」





















































