〇奥三河紅葉の名所・足助町の城

足助は奥三河の山間部に位置し、かつては尾張・美濃と信濃を結ぶ伊那街道の重要な中継地であり、陸路として河川交通においても要衝として栄えた商家町です。今も江戸時代後期(中期に一度大火で焼失)建築の家が今も多く残っており、重要伝統的建造物保存地区として観光名所となっています。もっともこの辺りは鉄道路線が無いため、後回しになっていますが、この地域は武田・徳川の攻防激しい地域であり、かつ開発による破壊を免れた多くの名城が残る奥三河の中心地でもあります。特に11月~12月初頭は紅葉の美しい地域で人だかりが凄まじい地域です。でもその混雑の中でもここへきて良かった、と思える名所でした。

この日は前日三重で宿泊

「宿」の最寄駅であるK鉄高田本山駅(津から東へ3駅ほど)から
K鉄始発列車に乗車して出発
名古屋からJR中央本線に乗車して、まずは中央本線定光寺駅にて下車します。
名古屋から普通で30分ほどの場所にある駅ですが、これがすごいのが崖にへばりつくように狭い場所にホームがあり、しかも周りはあまり人家の無い秘境地域。まさか名古屋から30分(500円)ほどの近場でこんな場所があると聞いて行ってみたくなったのでした。
庄内川
駅前は民家もまばらで本当に伝聞の通りに紅葉の名所です。
30分ほどして上り列車に乗車して高蔵寺駅まで
高蔵寺駅から愛知環状鉄道に乗り換えます。
新豊田駅にて下車
ここから歩いて数分の名鉄豊田市駅まで移動、ここから名鉄バスの「足助」行を待つのですが、いきなり20人ぐらいの行列がバス停前に立ち並ぶ信じられない光景に遭遇。これはいかんと慌ててすぐに私も並びましたが、40分待った末にようやく最後尾の席に座れました。
1時間以上のバス旅で見たのは狭い国道に思いのほか、交通量の多さに驚きました。そして足助に近づくにつれて家々も古くなり、ご丁寧にコンビニの建物も独特のペインティングがされていました。さて手前の香嵐渓でほとんどの乗客は下車したのですが、何しろ外国人観光客も多数いたので清算に手間取ること手間取ること、そして気が付けば私一人だけになっていました。
予定より15分ほど遅れて足助学校下にて下車。
すでに豊田市駅前バス待合室で観光マップを用意していたのでこれで迷うことなく進めます。ここから足助中学校までを目指します。
要所要所に「足助城」の案内標識がありますのでかなりの急こう配でも進めることができます。
幸い城の入口までは車道となっているので車があれば、上まですぐ行けるんですが、まあ一人で徒歩でくねくね曲がる道を登っていきます。
 
中世山城では珍しく、足助城は有料の城、とはいえ行った後で考えてみるとそれ相応の価値があります。
ここで300円の入城料を払った後に足助地域の7城の解説書を見つけたので即決購入。受付でパンフレットと縄張り図をもらい、いよいよ中に入ります。
縄張り図
足助城は標高301メートルの真弓山の山頂を主郭として四方に張り出した尾根を利用して連郭式の山城でした。
平成元年の「ふるさと創生事業」と足助町制100年を記念して、城跡公園として整備し、史実に基づいて発掘調査に基づいて建物群が復元されました。現在ではきれいに雑草一つ無くかつての中世城郭としての姿を模しておりました。丁度城跡を一周できるよう散策コースもきちんと設定しているので、非常に回りやすい。
堀切跡
足助城の中心部分と、南の山上に延びる施設を区切る役割を持っており、堀切自体も通路として使用されています。
 
上部を見上げると見事な樹木が見事な真紅の紅葉のをなしていました。
南の丸腰曲輪Ⅰ
南の丸腰曲輪Ⅱ
 
西南の谷間を監視するように設けられた曲輪のようです。
それにしても紅葉の見事さは落ち葉で地面が赤く舗装されていると錯覚させるほどでした。
井戸跡
足助城には山の斜面からの湧水を溜めるために作った井戸です。
西の丸腰曲輪
上から西の丸に柵列も復元されていました。
西の丸入口
西の丸には足助の街を見下ろすように岡崎や名古屋への街道が眺められます。現在では発掘調査の結果、2棟以上の建物があったことが分かっており、現在では柵列が復元されています。
西物見台
物見台は岩盤の上に有り、掘立柱の建物が復元されていました。
もっとも残念ながら中には立ち入れませんでしたが。
それにしても見事なまでに斜面によって上への上り坂が限定されており、移動には大層時間がかかります。もちろん敵兵侵入防止のためにこうして移動の便よりも防衛を優先して攻めにくさを追求した構造になっています。
上から見た見事に真っ赤な紅葉
入口は昔ながらの「はねあげ戸」と呼ばれる形式
こういうきちんとした考証による復元した城は私は大好きです。
ここは南の丸
角ばった扇形で造られ、城兵の生活空間のような場所でした。l
カマド跡
2棟の建物が復元されており、もちろん中に入ることができます。
こちら手前のは台所建物
囲炉裏
上がいよいよ主郭です。
こちらも厨
食事の準備を行うとともに武士が寝泊まりしている空間であったと考えられています。
南物見台
南方の鶏足城への連絡を兼ねた矢倉と考えれれています。
木橋で連結された堀切を渡っていくと主郭となります。
 
もちろんこの橋は便宜上設けられたもので本来なら更に堀切の底をぐるっと回っていかないといけないものでした。
本丸曲輪
真弓山の山頂部に位置する本郭は足助の街並みを眼下に見下ろすとともに信州と美濃への街道、尾張・三河への街道を臨むことができます。
本丸縄張り図
復原された長屋と高櫓
長屋は細長い建物で
本丸を護衛する武士の駐屯所もしくは武器庫であったと考えられています。
高櫓は2層の木造復元物で発掘調査で見つかった掘立柱建物跡から構造を割出、建物外観や間取りは想定復元したものです。
想定復元というとまあ結局は想像であり、確かな根拠は無いのですがそもそも戦国時代に建物の絵図が残っている方が稀なのである意味では止むを得ません。
高櫓からみた足助の街並み
高櫓内1階
甲冑(レプリカ)
鉄砲(レプリカ)
階段を上がって
2階部分
復元はできる限り調査に基づく復元を行っていますが、畳の間取りはちょっと疑問。当時の城の櫓でこのような畳があったかというと?が付きます。まあ非常に快適で休息するにはうってつけでしたが・・・
発掘調査平面図
建物復元前の写真
高櫓2階から見た屋根
北腰曲輪Ⅰ
信州への街道を監視できる場所でした。
本丸寄りに建物跡が見つかり、建物を通って本丸まで行くようになっていました。
北の腰曲輪Ⅱ
信州への街道監視用
 
こうして1時間かけて足助城散策を終えました。見ていて非常にきれいに整備されており、また解説などの案内も非常に充実しており、なかなか良い城でした。建物があり、かつての城跡を思いめぐらせることができる。一度は絶対行っておきたい城です。
 
ここからは足助の街並み、そして一番の見どころである香嵐渓を散策します。
 
巴川沿いの香嵐橋の吊り橋
紅葉の道
 

 

三州足助屋敷
ここは昔の山を暮らす体験型施設で、機織りや藍染めなどの手作業ができます。
また周囲には五平餅や鯖の塩焼きなど山里の味を楽しむ食堂もあり、人でにぎわっていました。
 
 
 
 
香嵐渓は東海地方一の紅葉の名所で11月に実に4000本もの紅葉が一斉に紅葉し、絶景として多くの人を集めています。
 
飯盛山も見事な紅葉でした。
続けて足助の街並みも散策
昔の旅籠玉田屋旅館
 
ここはかつて江戸時代に足助陣屋がおかれていた場所
まあ現在はアンテナ施設で遺構らしいものはありませんが・・・。
もう一度香嵐渓を撮影
飯盛山
 
香嵐渓のバス停付近は観光客と思しき車両で非常に混雑しており、地元の関係者が必死に交通整理する姿がありました。やはりこの時期は非常に混雑するもので、車での来訪は控えた方が良いでしょう。それにしてもこの紅葉の絶景は本当におススメです。
 
〇足助7城の歴史
足助町は、鎌倉時代末期から南北朝にかけて足助一族が支配していました。この地は尾張・三河と信州を結ぶ伊那街道の結節点にあたる場所であり、重要な場所でした。足助地方は皇室領の足助荘があったことから荘園の管理者としてこの地に赴いたのが始まりと思われます。彼らはこの血に飯盛城を本拠地として、白木ヶ峯城、そして足助城、大観音城、城山城、成瀬城、悉生城と2.5キロの範囲で7つもの城郭を築きました。これらが足助氏七城(屋敷)と呼ばれたもので、その後もこれらは戦国まで使用されました。
 足助氏は鎌倉時代末期に後醍醐帝の挙兵に際して、笠置山に真っ先にはせ参じ、奮戦したのですが、敗戦に終わり、以降足助氏は衰退していきます。
戦国時代には三河鈴木氏の中で足助鈴木氏の本城となったのが足助城で、彼らは永禄7年(1564)以降は松平氏(後の徳川)の国衆となり、一方でこの地は武田信玄・勝頼と2代にわたって侵攻を受け、一時は武田氏の領有化に入りましたが、これも長篠の合戦で一掃され、再び鈴木氏の城となりました。最終的に廃城となったのは家康が関東移封となった天正18年(1590)のこととされています。
 
〇アクセス
名鉄豊田市駅から名鉄バス矢並線で「足助学校下」(約1時間 800円)から徒歩20分で入口、徒歩10分で本丸
・足助城
開城時間  9:00~16:30
入館料    300円
休城日    木曜日、年末年始(12月25日~1月5日)
・受付にて足助7城解説書(540円)で販売
 
「足助城に狼煙が一本・・・」