〇「徳川」はこの地より誕生する
愛知県東部、かつての奥三河は名古屋近郊では自然豊かな地域です。そして豊田市中心部から東へ10キロほどいったところに、「松平郷」と呼ばれる地域があります。その地名が示す通り、ここは将軍家「徳川家」の発祥の地であると言われています。かつてここを根拠地とした土豪がやがて三河の中で有力勢力となり、大名へそして天下を手中に収める日本でも有数の家となる・・・そんな天下人の出身家ですから、伝説も多々あり、どこまで真実かは分かりません。まぁ「新田の末裔」は噴飯ものだとは思っていますが・・・
そんな場所で自然豊かでここも足助と同じく様々な史跡や神社仏閣が残っています。
それでは「足助城」の続きで
「足助」から再びバスに乗り込んだ私は再び名鉄バスで今度は「岡崎」方面のバス乗車して向かいます。
30分ほどで「九久平」にて下車(それにしても豊田市からの乗車に比べて半分ほどなのに運賃が680円とそんなに変わらないのはちょっとかなり割高じゃないかな~)
もっとも辺りには何も案内標識一本すら無いのでスマホナビでの案内で進むことになります。バス停手前の交差点を右折して東へ
ひたすら車道脇を登っていきます。ここらへん歩道も無く完全に車道でした。やがて見えてきたのが「大給城」の標識です。
細い一本道を進むと大給城へと続く登り道を発見、ここからは山登り開始です。
木々に囲まれ、ちょっとした散策で登れる山です。
大給城址までは登り口から歩いて10分ほどで到着できました。多数の人がすれ違い、この城が人気のスポットなのでしょう。
入口部分にある縄張り図
大給城の特徴は三河でも珍しい石垣の城で「露岩」と呼ばれる天然の巨岩がそのまま城郭の防御施設として機能していることもあります。
例えばこの巨岩もそのまま地形として「堀切」として機能しています。
そして随所にはこちらは人工の石積み加工もされていました。
こちらも露岩を利用した虎口
この露岩を目当てにしてこの大給城、シーズンには多数の訪問者があり、結構この地域では人気の観光スポットとなっています。
石積み
虎口をくぐると
Ⅳ郭虎口
櫓台
土塁
1郭
 
随所随所に土塁と露岩がつながり、一本の防御線を構成しているのもこの城の特徴
堀切を更に登ると
主郭
この大給城、山城としては珍しいことに山の最高所が主郭ではない点があります。

最高所から主郭が覗かれないように石塁線がまるで高所からⅠ郭を遮断し、視認させないように構成しているから面白い

高石垣
形から言ってもかなり後期に築かれたとみられます。
石塁線
一段低くなっているⅠ郭、高さにして1メートル程です。
そしてその1郭を遮断するために石塁線、というのが役割でした。往時にはここに土塀もあったかもしれません。
Ⅱ郭は一面きれいに紅葉に覆われ、深紅の世界を下りなし、「きれい・・・」と見とれてしまいました。
この2郭こそ大給城の最高点であり
先端部の巨岩はそのまま物見岩としての機能を有していました。
巨岩同士の組み合わせをした虎口
こうして自然の巨岩をも活用した大給城の城造りは工事の難儀さと共に当時の土木技術の高さを感じさせます。
物見岩(現在は安全柵が設けられています)の上から三河平野部(現在の豊田市街を一望)
それにしても落ち葉もここまで赤一色は見事な美しさと共にまるで流血のように感じさせてしまいます。
こちらは石垣で造られた虎口
2郭全体図
一段斜面を降りていくと3郭に行き着きます。ここの紅葉も見事に赤くなっていました。
奥三河はやはり11月~12月初頭に絶対行くべき
ここも随所に石材が残り
3郭は館跡であり、平時にはここが居住空間となっていました。
3郭の櫓台部分
井戸
大給城の見所の一つである水の手
2段にわたって石垣を駆使して谷のダムのような大規模な取水施設を構成していました。
 
これほどの大規模な取水施設のある城もそうはありません。ただこれ結構上り下りするの苦労するんですよ。何しろ蟻地獄のような斜面を下っていきますので・・・
「取水池」の底
外縁部の「ダム」
この東側に竪土塁と竪堀を構成しており、水源を確保するとともに防御の弱点を補うためのものでした。
城跡手前にある「松平乗元の墓所」
ここは大給松平家始祖・乗元の墓です。大給松平家は3代目当主・松平信光のの次男で松平宗家(後の徳川家)の親戚筋にあたります。
最後に大給城の登り口からそのまま降りていくと松平支所と交流館があり、ここでバスが来るまで小休止しました。残念ながら観光案内所はありませんでしたが、ここに松平地域の観光マップがあり、これは今後も活用できます。「九久平」の一つ手前だったので、こちらから行けばよかったかな・・・。
いずれにせよ、ここは非常に日本中で大給城にしかない見所がたくさんあり、来て良かったと思える城跡でした。
 
〇大給松平氏の本拠地
大給城は始め長坂新左エ門の居城でしたが、後に3代目当主・松平信光が奪取し、次男の乗元がこの城を与えられました。この大給松平伊家はその後は松平宗家に対して服従と対立を繰り返していましたが、それだけこの大給家は松平一族でも強い軍事力を保有していました。天正12年(1584)頃に大給松平氏は大給城から細川城(岡崎市)へと転封となり、その後徳川家直轄城として現在に残る大城郭として改修されました。この時期は小牧・長久手の戦いで秀吉と敵対していた時期で、徳川家としては防衛拠点として整備・拡張を行ったと考えられます。ちなみに大給松平家はその後も存続し、子孫は大分府内藩、そして日本で2つしかない五稜郭を築いた龍岡藩があります。
≪参考文献≫
愛知中世城郭研究会・中井均 編『愛知の山城 ベスト50を歩く』 2010 サンライズ出版
 
〇アクセス
名鉄東岡崎駅から名鉄バス「岡崎・足助」線で九久平(約45分、660円)徒歩35分で登り口そこから徒歩10分で主郭
 
「大給城に狼煙が一本・・・」