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〇嵐の通過をひたすら待つ
この日深夜は春日山の「宿」に泊まってから凄まじい風雨に襲われ、「こりゃ明日の旅行計画は全ておじゃんかな・・・」と覚悟していた。案の定、情報を総合すると新潟県の鉄道網は明日朝は運休の連続。これは絶望的な情勢であり、こりゃ
今日は寝てるだけ
になることを覚悟していたが、朝になると意外とあっさりと雨が止んでいたので、遅まきながら出発。もっとも出発は9時過ぎといつもより遅めとなり、遺憾ながらこの日は1城で終わってしまう・・・
朝9時過ぎの春日山駅から出発
直江津駅
ここの駅北口のうどん屋で朝の朝食を食べて出発
昔は115系の国鉄電車の宝庫であった新潟支社管内であったが、ここも今や近代化されていた。個人的には新潟の115系は様々なカラーリングで彩られてそれが魅力的であったのだが・・・
観光列車越乃Shu*Kura
信越本線(JR東)、えちごトキメキ鉄道、北越急行を走り、酒を楽しめる観光列車
北越急行、えちごトキメキ鉄道、越乃Shu*Kuraが並んだ貴重な瞬間を写真に収めて出発

青梅川駅付近の海岸

日本海の荒波が凄まじい波浪を引き起こす

青梅川駅
日本でも有数の「海に近い駅」
鯨波海岸
鯨の絵が妙に目につく鯨波駅
柏崎駅から越後線に乗り換えて、一路新潟へ向かう。
新潟駅
ここもすっかり高架化された駅舎になったなぁ・・・と時の流れを感じざるを得ない。
地上ホームはすっかり取り壊されてしまっており、かつて「きたぐに」でここまで訪れた時の面影は偲ぶべくもない。
新潟駅舎
すっかり晴れになっており、つい12時間前まで台風が通過した影響は感じられない。ここから白新線と羽越本線直通村上行列車へ向かう。
中条駅で下車
駅舎は真新しく改装されており、何と待合室にはコンセント設備(ちゃんと充電OK)まで備え付けられていた。
さて本日は昨日強い風雨だったために山城については断念することにした。(基本的に風雨通過後は地面はぬかるみ、倒木の恐れが高く危険)そのために今回は平地の「城館」である江上館を目指す。幸い、駅から歩いて10~15分の至近距離にある、とのことだったので今回は楽勝!!と思っていたのであるが・・・
目的地周辺は民家で細かい路地が複雑に入り組んでいる、というトラップが発生。
ええ、駅の地図にはこんな細かい路地書いてなかったじゃん。案内表示も何もねーじゃん。これ一発で行ける人いるの?
慌てて「索敵」モードで入るが、こんな時に限って人が全く通らない。自転車で老婆が通りがかるも話しかけようとしたら、アッサリスルーされてしまう始末であった。結局10分ほど迷った末にスマホの地図探索を使用。
江上館は水堀と土塁で囲まれた「居館」の見本のような姿であった。
ここの正式名称は「史跡 奥山荘城館遺跡」
中世の越後荘園の姿を今に留めるとして、昭和59年に国指定史跡に指定されたものである。その中で「江上館」は一番目であり、これは奥山荘地頭の中条氏の居館にして、この中条地域の中心であったから。現在では発掘調査に基づいて15世紀の中条本家の本拠地としての居館の姿が復元されている。(なお奥山荘城館遺跡は他に鳥坂城など12か所が指定されている)
木橋と南門
内部の主殿跡
 
土塁上部
水堀
向こうに見えるのはガイダンス施設「奥山荘歴史館」である。
復元図にはかつてこの館内部には川も流れており、まさしく庭のようであったと考えられている。
北門と土橋
北郭、主郭を守るために設けられた郭
虎口の土塁が復元されており、「武士の館」として立派な城跡であったことが分かる。
稲荷社
歴史館内部の江上館土塁剥ぎ取り展示 よく見ると4層にわたって形状が異なっており、時代が下るにつれて土塁が拡張されたのが分かる。
歴史館は他所からの入館者は極めて珍しいこともあってか職員の男性が丁寧に解説してくれたおかげでこの奥山荘地域の歴史への大いなる勉強になった。
特に「板額御前」については初めて知った鎌倉時代の女傑であった(後述)
江上館と奥山荘歴史館
ここでガイドブックと関係資料各種を入手
最後には良い旅を、と別れることができた。
羽越本線沿いに中条駅まで戻る途中で特急いなほ通過。これも車両がすっかり新しくなって僅か5年前とはすっかり時代が変わってしまったと実感。
最後に上越新幹線に乗り、
越後湯沢駅
ここで駅近くの温泉にて入浴

最後に北越急行に乗車してスタート地点の直江津駅まで。

これにして

春日山(えちごトキメキ鉄道)~直江津~(信越本線)~柏崎~(越後線)~新潟~(白新線・羽越本線)~中条(江上館跡)~新潟~(上越新幹線)~越後湯沢~(北越急行)~直江津と

新潟県一周の旅を一日で成し遂げることができた

まあもう少し出発が早ければ一箇所回ることができたが、台風通過直後であることを考えれば、上出来であった。幸い明日は晴だったので、明日からの本番に備えて本日は柏崎で一泊して終了。

 

〇胎内市ゆかりの女傑「板額御前」

平安時代に大和朝廷によって推し進めらた東方への勢力拡大が一段落して、後期には朝廷の統治能力が弛緩すると共に東日本の陸奥・出羽・越後・関東といった地域では下級貴族が武官として任地に赴き、一族や在地有力者をまとめ上げていきました。彼らは軍事貴族として、兵士を率いる「武士」へと成長していきます。中央から派遣された国司や国府の官僚たちは新たに開墾された土地からも徴税対象にしようとして、「武士」たちは朝廷の高位貴族たちに接近して、彼らに上納金を収める代わりに免税を受けようと活動し、両者の思惑が一致した時に

「荘園」が各地に成立していったのでした。現在の胎内市である中条に根付いた城氏もその軍事貴族であり、11世紀後半に越後で勢力を拡大。大貴族である藤原摂関家に接近して、「奥山荘」が成立しました。文献から伝わるその繁栄はあの奥州平泉に匹敵するものであったと伝わります。しかし繁栄を誇った城氏にもやがて時代の波が襲い掛かります。やがて源平合戦が終結して、鎌倉時代に入ると平家方であった城氏は建仁元年(1201)に時の当主・城長茂が挙兵、2代将軍頼家はこれを機会に越後の大勢力・城氏を殲滅すべく討伐戦に乗り出しました。最後の当主である城資盛(長茂の甥)は鳥坂城に籠城します。この時に城において奮戦したのが資盛の叔母にあたる

板額御前でした。彼女は櫓の上から弓を攻め入る敵に浴びせ、その強弓は鎌倉方をも感嘆させるほどものでした。鎌倉幕府の正史にある『吾妻鏡』にもその活躍が特筆されており、当時鎌倉武士たちに強い印象を植え付けたのでした。しかしある時、遂に両足を射ぬかれて、捕虜となってしまいます。これを機に多勢に無勢であった鳥坂城は落城。ここに城氏は滅亡の時を迎えたのでした。

 やがて板額御前は鎌倉へ護送され、将軍頼家の前に引き出されますが、臆することないその対応に幕府の御家人たちを驚嘆させました。そしてこの場に居合わせた甲斐源氏の浅利与一義成が「彼女を妻に迎えたい」と申し出て、許されて板額御前は嫁ぎ先の甲斐国にて晩年を過ごした・・・と言われています。

現在では胎内市では毎月9月下旬に「板額の宴」として彼女ゆかりの演劇が開催されるほどの人物となって語り継がれています。

 

さて、ここで歴史館の人から面白い解説を受けました。それによれば浅利義成が何故彼女を嫁に迎えようとしたのか?という疑問として、実は浅利は出羽(秋田)に所領を持っていたのでした。ところがここは難治の地であり、激しい抵抗に悩まされていたのでした。そして城氏は実は出羽に大きな勢力を誇った名族・清原家との縁戚関係にあり、板額御前は清原家の血を引いていたことから彼女を嫁にすることで新領土への統治を円滑にするという政治的思惑があったのではないか・・・今となっては確かめる術はありませんが、案外その辺が真相なのではないでしょうか。

 

〇江上館の成立

城氏が滅亡すると、やがて三浦和田家が地頭として奥山荘に入ります。やがて奥山荘は3地域に分割、北条・中条・南条の三分割され、それぞれ黒川(北条)・中条(惣領家)・関沢と地名を取って名乗ることになりました。江上館は15世紀(室町時代)の中条本家の本拠地であり、その構造は既に見てきたとおり、南北に虎口と馬出が付属する連郭式の館で、当時としては先進的な構造でした。その砕石には主郭内部には日常空間と晴れの空間と呼ばれる儀式的空間に区分され、舶来の高級陶磁器などが出土しています。その後、中条氏は戦乱の激化と共にやがて山城である鳥坂城へと移転。その後、中条氏は上杉の会津国替えと共にこの地を去りました。

歴史館に展示されている青白磁梅瓶

 

江上館は新潟県においては駅からすぐ近くという立地ときれいに復元整備された史跡、そしてガイダンス施設が充実したなかなかの史跡でした。余り知られていませんが、結構おススメです。

 

〇アクセス

JR羽越本線中条駅から徒歩15分

・奥山荘歴史館

開館時間   9:00~17:00(12~3月の冬季は休館)

入館料     100円

休館日     月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)


江上館の解説本600円を販売

 

「江上館に狼煙が一本・・・」