最後に北越急行に乗車してスタート地点の直江津駅まで。
これにして
春日山(えちごトキメキ鉄道)~直江津~(信越本線)~柏崎~(越後線)~新潟~(白新線・羽越本線)~中条(江上館跡)~新潟~(上越新幹線)~越後湯沢~(北越急行)~直江津と
新潟県一周の旅を一日で成し遂げることができた
まあもう少し出発が早ければ一箇所回ることができたが、台風通過直後であることを考えれば、上出来であった。幸い明日は晴だったので、明日からの本番に備えて本日は柏崎で一泊して終了。
〇胎内市ゆかりの女傑「板額御前」
平安時代に大和朝廷によって推し進めらた東方への勢力拡大が一段落して、後期には朝廷の統治能力が弛緩すると共に東日本の陸奥・出羽・越後・関東といった地域では下級貴族が武官として任地に赴き、一族や在地有力者をまとめ上げていきました。彼らは軍事貴族として、兵士を率いる「武士」へと成長していきます。中央から派遣された国司や国府の官僚たちは新たに開墾された土地からも徴税対象にしようとして、「武士」たちは朝廷の高位貴族たちに接近して、彼らに上納金を収める代わりに免税を受けようと活動し、両者の思惑が一致した時に
「荘園」が各地に成立していったのでした。現在の胎内市である中条に根付いた城氏もその軍事貴族であり、11世紀後半に越後で勢力を拡大。大貴族である藤原摂関家に接近して、「奥山荘」が成立しました。文献から伝わるその繁栄はあの奥州平泉に匹敵するものであったと伝わります。しかし繁栄を誇った城氏にもやがて時代の波が襲い掛かります。やがて源平合戦が終結して、鎌倉時代に入ると平家方であった城氏は建仁元年(1201)に時の当主・城長茂が挙兵、2代将軍頼家はこれを機会に越後の大勢力・城氏を殲滅すべく討伐戦に乗り出しました。最後の当主である城資盛(長茂の甥)は鳥坂城に籠城します。この時に城において奮戦したのが資盛の叔母にあたる
板額御前でした。彼女は櫓の上から弓を攻め入る敵に浴びせ、その強弓は鎌倉方をも感嘆させるほどものでした。鎌倉幕府の正史にある『吾妻鏡』にもその活躍が特筆されており、当時鎌倉武士たちに強い印象を植え付けたのでした。しかしある時、遂に両足を射ぬかれて、捕虜となってしまいます。これを機に多勢に無勢であった鳥坂城は落城。ここに城氏は滅亡の時を迎えたのでした。
やがて板額御前は鎌倉へ護送され、将軍頼家の前に引き出されますが、臆することないその対応に幕府の御家人たちを驚嘆させました。そしてこの場に居合わせた甲斐源氏の浅利与一義成が「彼女を妻に迎えたい」と申し出て、許されて板額御前は嫁ぎ先の甲斐国にて晩年を過ごした・・・と言われています。
現在では胎内市では毎月9月下旬に「板額の宴」として彼女ゆかりの演劇が開催されるほどの人物となって語り継がれています。
さて、ここで歴史館の人から面白い解説を受けました。それによれば浅利義成が何故彼女を嫁に迎えようとしたのか?という疑問として、実は浅利は出羽(秋田)に所領を持っていたのでした。ところがここは難治の地であり、激しい抵抗に悩まされていたのでした。そして城氏は実は出羽に大きな勢力を誇った名族・清原家との縁戚関係にあり、板額御前は清原家の血を引いていたことから彼女を嫁にすることで新領土への統治を円滑にするという政治的思惑があったのではないか・・・今となっては確かめる術はありませんが、案外その辺が真相なのではないでしょうか。
〇江上館の成立
城氏が滅亡すると、やがて三浦和田家が地頭として奥山荘に入ります。やがて奥山荘は3地域に分割、北条・中条・南条の三分割され、それぞれ黒川(北条)・中条(惣領家)・関沢と地名を取って名乗ることになりました。江上館は15世紀(室町時代)の中条本家の本拠地であり、その構造は既に見てきたとおり、南北に虎口と馬出が付属する連郭式の館で、当時としては先進的な構造でした。その砕石には主郭内部には日常空間と晴れの空間と呼ばれる儀式的空間に区分され、舶来の高級陶磁器などが出土しています。その後、中条氏は戦乱の激化と共にやがて山城である鳥坂城へと移転。その後、中条氏は上杉の会津国替えと共にこの地を去りました。
歴史館に展示されている青白磁梅瓶
江上館は新潟県においては駅からすぐ近くという立地ときれいに復元整備された史跡、そしてガイダンス施設が充実したなかなかの史跡でした。余り知られていませんが、結構おススメです。
JR羽越本線中条駅から徒歩15分
・奥山荘歴史館
開館時間 9:00~17:00(12~3月の冬季は休館)
入館料 100円
休館日 月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)
江上館の解説本600円を販売
「江上館に狼煙が一本・・・」








































