〇村上義清・・・奴は敵にとっては最悪の存在

人間だれしも得手不得手、苦手とするものがいます。武田信玄は村上義清に2度も大敗を喫して、ついぞ戦場で勝利を手にすることはできませんでした。その相手、村上義清は城郭ウォッチャーにとっても難敵でした。まるで崖を登るような苦難を強いられた砥石城、登山道の川登を強いられた根知城、どれもこれも2度と行きたくはない城でした。しかし、まだ本番が残っていました。そう

肝心の村上義清の本拠地であった葛尾城が残っていたのでした

紅葉の秋、万全の状態を整えて葛尾城を目指したのでした。

 
朝6時に夜行バスで長野駅に到着、流石に早朝は肌寒くなっていましたが、まだまだ冬の訪れまでは一時のうららかな秋の長野の平野をしなの鉄道に乗って進みます。
しなの鉄道坂城駅に到着したのは7時前のこと
坂城駅は坂城町の玄関口駅、付近には案内所もある・・・筈だったのですが、運の悪いことにこの日は月曜日で休業日だったのでした・・・
駅のすぐ近くには湘南色の169系電車が展示されていました。
坂城駅には油槽施設が付随しており、現在でも貨物列車が運行しています。
さて葛尾城までですが、実は城の登り口自体はすぐ近くです。そして圧倒的な存在感である村上義清の存在感です。
坂城宿ふるさと歴史館
村上氏城館跡
坂城神社入り口
あの山の頂が葛尾城 標高805メートル比高でも400メートルはある難易度の高い山城がそびえたちます。
坂城神社
ここも地形的から見ると居館があった可能性が高そうです。
実際「城館跡」の石碑もあり、先程の跡とは少し離れているのですがどっちが本当なんでしょう?
さあていよいよ山登り開始といきます。
登り道は2つ、一つは「左・緩やかな道」「右・急な道」と書かれております。
ネタバレですが、どっちを選んでも大して結果は変わらないコース。ここは右の直線コースを辿ります。このコースは主郭まで一直線できるメリットがあります。
予想していましたが、これはもうなかなかの急斜面でもはや道じゃありません。
そして遂にこの斜面は恐るべき角度になりました。これ道なの?本当に道なの?
途中にある「キノコ採取禁止」の札と共にビニールテープで貼られています。長野では多くの山がキノコ山となっており、それらの採取できる部分には立ち入り禁止となっていますので、秋には要注意!でもこのテープありがたいことに城までの道しるべとなってくれます
 
かくして延々40分ほど斜面をよじ登っていくと
主郭跡に到着しました。
四阿
周囲は断崖

標高800メートルの葛尾城からは周囲一円を眺望できる優れものでした。

 
葛尾城縄張り図
葛尾城は一つの城のことではありません。
中心主郭の「葛尾城」、手前側尾根にある「姫城」、そして西側にある「岩崎城」の複合城郭からなります。
この周囲の尾根は遊歩道になっていますが、それでも人一人が歩ける程度の階段です。
主郭から先は尾根となっており、
それを一つ一つ上り下りしていかないといけません。
その数は優に6か所はあるという厳重な堅固ぶりです。
そしてあるいていくとおや?石垣のようなものが見えてきました。
そう間違いなく石垣です。
珍しいことに城の主郭から15分ほど歩いた先端部分のみ石垣が積まれたエリアに遭遇。何故ここだけ石垣となっているのかは謎です。一説には第1次上田合戦後に北信濃に入った森氏による改修とも言われています。
それにしてもこの遊歩道本当にきつい斜面で階段が無ければ危ういものでした。
二の郭跡
三の郛跡
ここからはもう一つの「姫城」を見学するコース(先程の入り口の「緩やかな道』コースです)を下山していきます。
姫城へはその途中での分岐に進むのですが、こちらは道どころか目印の無いひたすら尾根を突き進むコース
これ下手すると迷いかねないコースです。
しかも途中には至る所に倒木がたくさんあります。
葛尾城から約20分、姫城主郭部分に到着しました。
姫城の主郭と2郭を隔てる堀切には巨大倒木が。ここでこれ以上の探索は断念します。
 
それにしても姫城エリアは倒木、枝、落ち葉が酷く歩くのも一苦労します。
姫城は標高646メートル
竪堀跡
ですが、これをまた登らないといけない罠。
かくして往復2時間以上かけてようやく登り口まで戻ってきました。
 

満泉寺

村上義清を始めとする村上家の菩提寺であり、かつては村上氏居館跡だったとされています。
坂城の街には今も古い民家が残っていました。
 
葛尾城はそれ自体も堅固な山城ですが、その山脈に連なる形で「姫城」「岩崎城」更に周囲にも和合城、虚空蔵山城、孤落城、三水城、更に西方には出浦城、北方に荒砥城というこれもまた一つ一つが堅固な山城で固められた一大城郭ネットワークの中心地であったのです。信玄も直接力攻めで村上を攻めなかったのも納得。そりゃこんな堅固な地域を攻めたりしたら、紛れもない地獄が待っているようなものですよ。
本当に村上義清に関わるとろくなことがない
それはもう現代にも嫌と言うほど分かりました。
 
〇村上の天敵は?

信濃村上氏の出自ははっきりしませんが、寛治8年(1094)、当時の院である「白河上皇」を呪詛した源仲宗が配流となり、その息子が信濃に流されたのが始まりとされています。村上氏はその後、筑摩郡(松本市)を本拠とする信濃守護小笠原氏と勢力を二分する信濃の大名でした。葛尾城には義清の父顕国の頃には満泉寺で居館、そして葛尾の城が築かれたと考えられています。さて天文17年(1548)に「上田原の戦い」に天文19年(1551)の砥石城にて、武田軍を迎撃して見事な大勝利を収めたのでした。しかし、その後まもなく真田幸綱によって砥石城があっさり調略によって失われ、その後動揺した村上領では次々に家臣たちが離反、これによって葛尾城は孤立状態に置かれたために自落してしまったのでした。こうしてみるとやはり人間には「コイツだけは駄目!」という苦手な相手というのがあるかもしれません。相性ともいうべきかもしれませんが、武田にとって村上が鬼門であるように、村上にとっての鬼門は真田であったと言えるかもしれません。

 さて葛尾城ですが、その後意外な形で再び合戦の部隊となります。関ヶ原戦役の時、東軍大名であった森忠政はここ葛尾城を西軍に与した真田昌幸らへの監視拠点としていました。慶長5年(1600)に真田信繁(幸村)がこの城を攻め寄せてこの城に攻撃を加えました。この時、真田は城代である井上宇右衛門を調略で味方に付け二の丸まで迫った・・・これが葛尾城の最後の戦いとなりました。

 

〇アクセス

しなの鉄道線坂城駅から徒歩10分で登山口そこから徒歩40分で主郭

 

「葛尾城に狼煙が一本・・・」