〇利便性と文化保存の関係
群馬県(上野)に近く、碓氷峠から軽井沢の西にある小諸市はかつては中山道の宿場町として栄え、信越本線開業後も重要な幹線に位置しており、東京からは特急「あさま」が全列車停車する要衝の駅でした。さて長野新幹線(現在の北陸新幹線)が開業する時に小諸駅に路線が通る話が持ち上がったのですが、この時問題となったのが小諸城の存在でした。元々小諸駅は城跡敷地内にあり、ちょうど路線で分断される形となっていました。このうえには新幹線が通るとなると小諸のシンボルである小諸城跡の「懐古園」が破壊となる恐れがありました。そのために地元でも反対が根強くあり、当時長野オリンピック開催が決定したことでフル規格で早急に建設する必要があったために南にできて、佐久平駅として開業したのでした。そして開業後、元々何も無かった「佐久平」駅の方は商業施設や住宅街が立ち並ぶなど重要な存在となり、一方の小諸の方はというと特急が無くなり、東京からは列車の直通でなくなったためにかつての繁栄を失ってしまったのでした。新幹線の駅ができるかどうかで自治体に格差が生じる・・・余り新幹線ができると良くなる・・・というのは果たして本当なのでしょうか?
小諸駅は小海線との乗換駅
現在ではしなの鉄道とJR東日本の共同使用駅となっています。
小諸駅前
今となっては広大な駅施設も寂しい限りです。
駅の跨線橋を渡ってすぐに(この辺りがかつての三の丸跡でした)
懐古園入口
小諸城三の門跡であり、小諸城のシンボル的存在です。
「懐古園」の扁額は徳川家16代宗主・徳川家達揮毫によるものです。
仙石秀久がクローズアップ!仙石秀久も某漫画「センゴク」で有名になりましたし、もう少しスポット当たってもいいかなと思うときがあります。
この正面の巨大石垣は昭和時代に復元されたものです。
二の門跡
二の丸跡
二の丸内部
中仕切門跡
南丸跡
黒門橋
堀切
お駕籠台跡
本丸は懐古神社境内となっています。
本丸石垣
鏡石
かつて山本勘助が愛用した・・・と伝わる石
2007年当時の大河ドラマ『風林火山』の影響で当時長野では勘助ブームでした。
懐古神社
庭園
天守台石垣
天守台内部
天守台石垣は天正末期から慶長記に構築されたと考えられています。天守は寛永3年(1626)落雷で焼失、天守台付近では豊臣政権時代のものと思われる金箔が施された桐門の軒丸瓦と軒平瓦が見つかっており、あったと考えられています。
天守台石垣
水の手不明御門跡と富士見台跡
小諸城の搦め手口にあった門で現在のように櫓門の上が通路となって物見台となっていました。
千曲川をのぞむ断崖を背に本丸、二の丸、三の丸を一直線に並ぶかたちになっていました。
武器庫
荒神井戸
城内唯一の井戸です。
空堀
小諸城は近世城郭には珍しく空堀を採用しており、この地方特有の「田切地形」と呼ばれる自然地形をそのまま縄張りに撮り込んだ者です。
(田切地形は浅間山の軽石流堆積物を河川が浸食したもので形成された深い急峻な谷)でこの小諸城が自然の要害を巧みに利用した者でした。
最後に大手門
こちらはかつては明治時代に料亭として一部改変されましたが、平成20年の工事で再び元の門としての形に戻されました。現地案内板では実践的で質実剛健な建築は、弘前城(青森県)と並ぶ大手門の双璧とまで言われています。
小諸城は二の丸と本丸一帯を懐古園と名付けて公園として保存し、現在では藤村記念館など文化施設が多数あり、現在では小諸城一帯が貴重なまちづくりの資源となっています。なお小諸城の特徴として、通常「城」と言うのは何よりも周囲より高い(城内が丸見えにならないよう)ような地形に築かれますが、ここは城下町よりも低い位置にあり、「穴城」と呼ばれる城です。
〇上野~信濃を移動する者は必ずここを通る
小諸は佐久を抜けて甲斐へ向かう道、諏訪・木曽経由で京へ向かう道、そして上野方面から善光寺へ向かう道が通じる交通の要衝です。その要地を掌握するために築かれた信濃でも一二を争う重要城郭でした。長享元年(1487)に大井光忠が小諸城大手門の北側付近に「鍋蓋城」として築いたのが始まりで、その後佐久を侵略した武田晴信(信玄)は小諸城を佐久・小県支配拠点として城郭の拡張整備を行いました。武田氏滅亡後には滝川一益が上野一国と佐久郡を宛がわれ、城代には道家正栄が務めました。しかしすぐに本能寺の変で情勢が一変して、一益は神流川の合戦で敗北すると碓氷峠からここまで退却して佐久郡の国衆であった依田信蕃と面会、ここで木曽義昌と交渉して上方へ帰還したのでした。なおこの時、信繁が人質の祖母である幸隆夫人を救出しようとして側の女性が足を引っ張って捕まってしまった城でした。
その後は北条・徳川と頻繁に領有者を変えましたが、天正18年(1590)に豊臣大名である仙石秀久が入り、城下町の整備と共に現在の形に改修されたのでした。金箔瓦という豊臣政権では使用には厳格な規制のある部材が使用できたのはやはり小諸城の戦略的重要性を鑑み、家康を関東に封じ込める意図があったためでした。その後は小諸藩の藩庁として代々使われ、明治まで存続しました。
≪参考文献≫
河西克造・三島正之・中井均 編『長野の山城ベスト50を歩く』 2013 サンライズ出版
〇アクセス
しなの鉄道線小諸駅から徒歩5分
・懐古園
開園時間 9:00~17:00
入園料 500円
休園日 12月~3月中旬まで毎週水曜日、年末年始(12月29日~1月3日)
「小諸城に狼煙が一本・・・」


































