私の場合、結構時代や対象によって歴史の視方というかスタンスは結構変わっていて、たとえば戦国時代だと私の好きな人間と嫌いな人間への表現がもう分かりやすいぐらい感情が露骨に出てしまいます。好きなSHIROやJIBUはめっちゃくちゃ擁護になるし、逆に行き当たりばったりの戦争狂殺戮大好きな暴君とかは憎悪の念を隠しようがない。これに対して幕末はというと逆に結構色分けが難しい。彦根藩や会津藩は大好きで佐幕派のスタンスなのですが、一方では彼らを無条件に賛美する気はなく、政治や軍事の拙さについては結構批判的になったりもします。逆もまたしかりでISHINは偉大なるKAKUMEIであったとかSATTYOUだけが勝者となるのは必然であったというのも肯定できない。人間にしろ組織にせよ「こちらは正義」「こちらは悪」という単純な善悪二元論で歴史を語るのはいけない。どこのドラマとか言わんが、主人公を一方的な正義でそれ以外は悪とかそんな歴史ドラマなんぞ害悪でしかないと思っています。「正義」とか「悪」で全て語るというのは簡単なのですが、人間というのは複雑な要素を持っているものであり、「光」も「闇」も視点をもって語っていきたいと思います。

と前置きが長くなりましたが、奥羽越列藩同盟についても同じでこれを「戦争を引き起こした愚者」とかあるいは「正義の殉教者」という視点では見ないようにしています。さて今回はその同盟サイドから「裏切り者」扱いされることの多い藩を取り上げます。

 

〇伊達家との関係深い田村氏の本拠

福島県は大まかにいうと3つの地域に分類されて、海岸部の「浜通り」、仙道と呼ばれる「中通り」、そして一番内陸の「会津」となります。このうち「中通り」の地域で勇名をはせたのが田村氏でありました。戦国時代に本拠地としたのが三春城でありました。さて戦国後期に当主・田村清顕は米沢の伊達氏と提携することで南奥羽の諸勢力と対抗しようと娘の「愛姫」を政宗の正室として嫁がせました。清顕没後には政宗は相馬家と田村家をめぐって争い、田村家中は伊達派と相馬派に分裂して抗争しましたが、やがて伊達家に帰属しました。しかし天正18年(1590)の秀吉の奥州仕置き時に田村家は改易となり、伊達領に組み込まれてしまいました。うん、どうみても乗っ取りだよな、流石政宗あくどい。しかしこの後に政宗は葛西・大崎一揆で国替えとなり、蒲生氏郷の領土となり、以降三春城は蒲生・上杉・蒲生といった歴代会津の領主配下の城として存続し続けました。正保2年(1644)常陸宍戸から秋田俊季が5万5千石で入封。この秋田氏はその姓が示す通り、実は出羽秋田を支配して大勢力を築いた安東氏の後身でありました。一応祖先の地に近くはなりましたが、かつて安東氏は日本海交易で繁栄していた歴史を思うと内陸部では不満だったのではないかと想像してしまいます。それ以降、大きく国替えもなく幕末の激動期を迎えます。
 
〇選択
さて奥羽越列藩同盟が結成されるにおよび、三春藩も参加していました。もっともそれは仙台という大藩の有形無形の圧力があったことであり、その後は白河出兵を渋るなど消極的でした。既に同盟結成前の閏4月11日には秘かに家臣を上京させ、秘かに恭順の道を探っていたのでした。7月に入り、新政府軍の優勢が明らかとなると、三春藩は新政府軍参謀との和平工作を進めます。その中心が河野広中などの勤皇派の面々で、彼らは断金隊を組織して、軍用地図を作成するなど具体的な支援策を準備。そして下旬には藩論を恭順に統一して、7月27日には無血開城となりました。その後三春藩は新政府軍の案内を務め、二本松城目指して戦いをすすめ、以降会津寄りの立場から「卑劣な裏切り者」と憎しみを買うことになりました。特にこれによって孤立状態となった二本松では三春との間で深い遺恨が残ったと伝えられています。無論、それは「同盟」視点から見た話であり、三春サイドから見れば自領の平和を保ったと言えるでしょう。形の上ではスマートとは言えませんが、「信義を守って国土を焦土と化し、民間人からも大量の犠牲を出す」か「戦闘を回避して、領民の安泰を勝ち取るか」はどちらが「正義」かは人によって異なります。その後、三春城は明治の廃城後に建物や石垣が払い下げられたために城の面影は断片的となりましたが、現在では公園となっています。また2017年には続日本100名城に選ばれることになりました。
 
〇近くて遠い三春の地へ
宇都宮での一泊後に宇都宮の山城を見学した私は(この旅模様はまた後日で)再び東北へ向かいます。
勿論普通列車で
宇都宮から黒磯までは首都圏までは通勤電車の風情が強いですが・・・
黒磯駅からはディーゼルカーで乗り換え。それにしても電化されている東北本線で気動車が走る日がくるとは(非電化路線乗り入れ列車は除く)実は黒磯から新白河までの区間(栃木・福島県境部分)は直流・交流電化の切り替え区間であること利用者が少ないことからこの区間だけは交直両用電車を走らせる区間となるので乗り換えが必要なのです。ちょっと前までは黒磯駅構内で切り替えしていたので気にもならなかったのですがね。

ここで宇都宮名物・餃子弁当を食事。宇都宮は餃子日本一に拘る町。つい近年、餃子消費量が浜松に抜かれた!とニュースになって餃子食事運動を起こした程でしたので日本一奪還した後も熱心です。

そして新白河駅にて乗り換え。昔は黒磯から郡山までは乗り換えとなるようなことは無かったのですが、最近は本当に普通列車の旅だと何回もの乗り換えを強いられるので何ともキツイ時代になったものです。それにしてもこうしてまた更に乗り換え1回追加されるとやはり面倒なものです。
白河駅にて
戊辰戦争にて両軍が激しい争奪を繰り広げた白河小峰城がホームからも視認できます。ここも東日本大震災から7年かなり復旧しつつあります。
郡山駅にて磐越東線に乗り換え
目的地の三春駅は2駅ほどなのですが、磐越東線の列車本数は少な目なので結構旅の計画を練る際には組みづらい。三春城も今年ようやく実現できたからなぁ。
三春駅にて下車
城跡のある市街地は遠く、さて歩いていこうかと思案している所にバスの運転手のオッチャンが親しげに話しかけてきて「それならバスで言ったらすぐだから」と案内されてバスに乗車しました。何か客引きするタクシーみたいだなと乗ってから気付いたのですが、まあやはり城における滞在時間は長いに越したことはないと思えば安いか。
5分ほどして「保健所前」バス停にて下車。運転手さんからは丁寧に案内を受けたのでお蔭で迷うことはなさそうです。
三春の街は両脇を山々に囲まれたさながら谷のような形をしており、谷の中央部分を走る街道にそって細長く町が形成されています。そのなかで一歩抜きんでた存在なのが城山です。
途中まではアスファルトで整備されているので登るのは非常に容易い。
城の縄張り図
近代以降、ほとんどの城に関する遺構の大半は撤去されてしまいましたが、それでも登城路などは原形をとどめているのが分かります。
二の門跡
よく観察してみると地形などがかなり人工的であり、かつての城があったことをうかがわせるものでした。
途中二の丸部分までがアスファルト舗装なのであまり山登りしているような感覚はありませんでした。
櫓(矢倉)跡
本丸手前にようやく石垣の残滓が見えてきました。この石垣は蒲生時代に改修で設けられたものです。
本丸下の段跡
現地での案内板には「二の丸」跡となっていましたが、実際には本丸部分。二の丸は下の方にあるのでちょっとこの表現は正しくない。
この下の段先端部分にはきれいに整備された四角形状の土盛り部分があります。ここは天守代わりの三階櫓があったとされ、歴代徳川将軍からの朱印状が収められていました。天明5年(1785)に大火事で城の建物の大半が全焼する事件が発生していましたが、ここだけは少焼失を免れました。やはり収納物が収納物だけに最優先で保護対象となったのでしょうか。
ここからは三春の市街地が見えるのですが、木々と電線に阻まれて見えにくいのが難点か・・・
 
本丸裏門跡に残る「舞鶴城(三春城の別名)跡」石碑
本丸上の段跡地
裏門跡
今となっては木と草、そしてわずかな遺構のみでなかなか城らしい遺構を見つけるのが難しい。
本丸御殿跡に残る石段
ここが「御座の間」跡となります。現在では石段と祠があるのみですが・・・
 
 
三春の街並み
 
 
さてここで下の段まで戻って小休止とおもったらなんとポストがあって、しかもその中には
三春城のパンフレットと続日本100名城のスタンプが保管されていました。
良かったこれがあればもう少し詳しく散策できる。廃城の探索には詳しく書かれた地図が欠かせません。その点でこのパンフレットはありがたかった。
本丸北東角にある蒲生時代の石垣
麓部分にもよーく目を凝らせば石積み遺構が遺されているのが分かります。
草に隠れてしまっています。
円状の石積み遺構は井戸の跡でしょうか?
やはりこうしてゆっくり散策できたのは貴重な時間でした。
三の門跡

 

東館入口跡
三の丸跡(東館跡)
竪堀跡
揚土門跡
ここでこの揚土門を巡るエピソード紹介。先の文章で紹介した通り、田村家は清顕死後に当主不在で相馬派と伊達派の間で抗争となりました。この時、相馬義胤が叔母である清顕後室との面会を理由に三春入城を企てます。しかしここ揚土門で弓や鉄砲を打ちかけられ、更に伊達勢の追撃を受けて自領へと逃走したのでした。
三の門跡
本丸表門跡
 
もう1度石垣を再度撮影
 
麓の現在は三春小学校となっている辺りがかつての居館跡です。
藩講所・表門
 
さてこうして1時間近くの城跡散策は終了。折角なので資料館を訪問することにします。

丁度城山の向い部分の高台に歴史民俗資料館があります。

資料館
河野広中像
三春は自由民権運動の盛んな地域であり、河野広中はその代表的人物でした。
駅まで戻ると愛姫のイラスト絵
そういえば余り愛姫ってゲームとかにはまだ出ていませんでしたね。彼女が登場する日は訪れるのでしょうか?
三春駅までは徒歩で戻りましたが、やはり徒歩30分は長いものでした。この後もう一度郡山へと戻り、宇都宮→高崎へと向かったのでした。

 
〇アクセス
JR磐越東線三春駅から徒歩30分で登城口、本丸までは徒歩10分
・三春城内にパンフレット入りポストあり
 
「三春城に狼煙が一本・・・」