奥羽越列藩同盟の歴史を見ると、やはりどうにも「寄せ集めの諸侯たちの集まり」という印象を免れられないのが正直な所です。そもそも歴史的経緯からするとどうしてコイツらが同盟組めたんだ?という不思議さを感じさせる組み合わせが1、2組ほど。
さてそんな中で同盟の中では余りスポットの浴びない、だけど同盟にとっては欠かすことのできない藩が米沢藩、当主は上杉家でした・・・
〇米沢に上杉が訪れるまで
米沢のある置賜地方を明治10年ごろに東北地方を旅行したイザベラ・バードは「アジアの桃源郷(アルカディア)」と絶賛しました。その歴史がはっきりするのは暦仁元年(1238)鎌倉時代に長井氏がここに城を築いたのが始まりとされています。長井氏は天授6年(1380)に伊達氏に滅ぼされ、米沢城に家臣を置きました。そして天文17年(1548)伊達家15代目の晴宗がそれまでの本拠地であった桑折から米沢城に移して以来、ここが伊達家の本拠地となりました。(なおこの米沢城については実は西方2キロにある舘山城ではないかという見解が出されていますが割愛)いずれにせよ独眼竜政宗はここ米沢の地にて誕生したのでした。そのままいけば米沢はあるいは数十万石の大大名の城下町となっていたかもしれませんが、基本的に「せんでもええ」要らぬ危険行為をするのが三度の飯よりも好きな政宗が葛西・大崎一揆を裏で煽っていたのが討伐にあたった蒲生氏郷に露見。結局、2世紀にわたる領地である置賜地方から離れることになり、そこから岩出山へと移ったのでした。その後、蒲生家の時代を経てやがて慶長3年(1598)に越後の大名である上杉景勝が会津へと入封。家老である直江兼続が米沢の地へと入ったのでした。その後、関ヶ原合戦で「西軍」側についた(正確には西軍シンパというげきでしょうか)上杉家は120万石から30万石へと減封。直江の領土であった米沢はそのまま上杉の城となったのですが、前述の通り領地が4分の1に減ったために大規模な城郭建設は行われず、土塁と水堀で構造も簡素なものとならざるを得ませんでした。何しろ最初は城下に家臣全員分を収容できなかったぐらいなのですから。そこで多くの家臣を原方という半農扱いで農村に住まわせました。また直江は米沢の城下町を大勢の藩士が住めるように改造し、寺院を活用して要害とし、堰をいくつもつくって新田開発を行うなど領国整備に尽力。また先の原方衆は屯田兵として国境部分へと配置させました。さらに近江国友から鉄砲技術者を招聘して、鉄砲の整備に専念しました。
江戸時代の泰平の時代においては実戦が忘れ去られ、武士たちには「鉄砲は身分の低いものが持つ卑しいもの」という風潮が強かったのですが、米沢藩では藩風として鉄砲の技能を重んじ、その修練を奨励させていました。毎年正月のは「矩の鉄砲」という藩主観閲の鉄砲披露目会があり、家臣が藩主の御前で技量を競う晴れの舞台であり、家臣たちが先人争いをするほどの過熱ぶりであったといわれています。これらの鉄砲隊は大坂の陣でも活躍し、やがて戊申戦争でも大きな影響を与えることになるのです。
〇会津藩との関係
さてその後、米沢藩ですが3代綱勝の時代に綱勝が跡取りのいないまま急死するという事に陥りました。当時は幕府による容赦ない改易政策も下火になっており、「末期養子」も認められていましたが、綱勝は急すぎてこれすら手続きできない状態であり、本来ならこの時点で上杉家は取り潰しを免れられませんでした。この時、会津藩初代である保科正之が奔走して、綱勝の妹参姫と吉良義央の間に生まれた綱憲を養子とすることで存続を許されました。しかしこれにより更に領土は半減して15万石に、これはかつての領土の8分の1となるものでした。本来ならば、リストラを行うべきものでしたが、上杉家ではこれら家臣を越後以来の家臣であるからと雇用を維持しました。その結果当然の帰結として財政は凄まじい勢いで赤字を増やしていきます。そしてこの時のことが会津藩に対して大きな「借り」となり、幕末で大きな影響を与えていくことになるのでした。そのご、米沢藩は有名な上杉鷹山の時代に藩政改革に成功して財政を黒字に変えることに成功。そしてやがて幕末を迎えるのでした。
〇不透明な米沢の動向
幕末における米沢藩の立場はというと実ははっきりしません。佐幕派かといえばそうではなく(そもそも歴史的経緯からして領地を8分の1まで減らされたのですから当然ですね)尊攘派かと思えばそうではなく、なかなか玉虫色のような存在でした。例えば文久年間に京都に警備にあたった時には、京都では関東管領上杉氏という名門と謙信公が高い尊皇の志を持っていたことを思い起こして、攘夷親征に参加するよう長州からも勧誘を受けており、また禁門の変直前の長州の赦免復帰運動の時には同情的な立場でした。その一方では月十八日の政変には会津や薩摩と行動を共にし、幕府からは政事総裁職就任を打診される(固辞したため沙汰やみに)また幕府預かり地であった屋代郷3万7千石を加増(元の領地であった)されるなど幕府からも取り込みを図っていました。そして鳥羽伏見の戦いにおいても勃発前には旧幕府・新政府双方から出兵要請がありましたが、議論は分かれて結局幕府方で参戦しようと福島で出た時に敗報に接し、引き返していた経緯がありました。
その後、朝廷から奥羽諸藩に対して会津討伐の命が下り、米沢藩もしぶしぶ会津国境まで出兵しますが、かつての経緯から関係の深い会津藩の本格的攻撃を避け、和平を周旋します。しかしこの和平周旋は新政府側の高圧的な姿勢とそして会津側の強硬姿勢(謝罪はするが処分は受け入れられない)によって暗礁に乗り上げます。そうした中で米沢藩の立場はというとはっきりしません。会津・庄内両藩では徹底抗戦の機運が高まり、それに引きずられる形で仙台藩が次第に強硬論が高まっていたのに対して、米沢藩の立場はというと抗戦なのか和平なのかはっきりしていません。米沢藩士である宮島誠一郎は、長州の広沢真臣との間で交渉により、何とか会談の場を設けようとしており、それに基づいて列藩同盟を取りまとめようとしました。しかしこのラインも奥羽鎮撫総督下参謀・世良の暗殺で強硬論が沸騰する状態でした。かくして新政府に対する軍事同盟となった奥羽越列藩同盟の下で米沢藩は越後方面を担当することになったのでした。そうかつての上杉の故地である越後に・・・
○越後方面の情勢
越後地方では会津・桑名ともにもともと分領を抱えていました。慶応4年(1868)2月1日、鳥羽伏見の敗戦で地方への統治能力を喪失しつつあった幕府は越後における直轄領30万石分を会津・米沢・高田・桑名の4藩に預ける決定を下しました。特に会津藩はこの処置によって越後における最大諸侯という立場となり、越後各藩に大きな影響を及ぼすようになります。越後には日本海側で唯一の開港地である新潟があり、これを手中に収めることが必須でした。しかし越後に出兵した会津藩でしたが、越後の民衆からはやがてとてつもあない憎しみを買うことになります。無論それは会津藩自身による搾取・略奪によるものでこれによって越後では一時騒乱状態となってしまったのでした(こと民政に関しては会津藩は自領でも民衆がこぞって新政府軍を「解放軍」と歓迎されたのが象徴的なようにまったくダメダメでした)それは新潟港についても同じで、4月新潟奉行代理であった田中廉太郎は新潟町民に評判の悪い会津藩へは引き渡せないと拒みました。越後の人々が期待したのは旧主である米沢藩でした。米沢藩にとっても越後は故地であり、将兵にも「故地の民衆を解放する」という意識の下で軍規が厳しく律せられたからでした。民衆もかつての旧主については歓迎し、以下に越後における上杉の威光をマジマジと見せつける現象でした。例えば会津領となった出雲崎で徴兵された農兵隊が米沢指揮下に入れてもらうよう懇願して、彼らはその後米沢藩兵と共に新政府軍に抗戦するほどでした。また米沢藩兵には藩当局からも十分な物資と給金が与えられていたことも重要な要因でした。古今東西、「金払いの良さ」が占領下の民衆に支持されるかどうかの重要なポイントです。この点でも会津藩は失格でした。
かくして越後の民衆からの期待を一身に背負った米沢藩が新潟港を管理することで治安回復して、奥羽越列藩同盟は武器弾薬の供給口を確保して新政府軍と互角に戦える体制を整えたのでした。戦争においては「必勝の信念」だの「サムライ魂」だのといった抽象的精神論などでは戦えるものでは有りません。銃後の兵站・経済を確立してようやく戦えるものです。今も昔もその辺が分かっていない人間が多いのは考え物です。
しかしこれによって米沢藩はまたしても矛盾する立場となりました。そもそも越後に出兵したのは会津藩と共に新政府軍と戦うことです。しかしその一方で越後の民衆から蛇蝎のごとく嫌われているのは新政府軍ではなく会津藩であり、民衆は会津の圧政から「解放」してくれる役割を米沢藩に期待している。この矛盾はやがて不協和音となって響いてきたのです。そして7月下旬、激戦地である長岡周辺の中越方面が膠着状態となっていたことで新政府軍は海路からの下越方面への上陸作戦を決行。これに呼応して同盟にやむなく加盟していた新発田藩が合流して一気に新潟へと進軍しました。新潟で総大将を務めていた米沢藩重臣の色部長門はこの戦いで戦死して、ここに新潟港は陥落、越後方面における同盟軍は総崩れとなったのでした。
越後から退却したのち米沢藩では戦争は敗北不可避として8月末には縁戚である土佐藩の周旋で恭順の意を示し、その後は他の列藩同盟諸藩への降伏を呼びかける役割を果たし、最後には会津藩も米沢との交渉によって遂に降伏開城に至ったのでした。その一方で、東北諸藩との関係を鑑みて、「奥羽の罪を一身に受ける」と表明、降伏時の対応が評価されたのか、4万石の削減(ただし最初は僻地にしようとして「出直してこい!」と叱責され、結局富裕な長井地方を引き渡す羽目になりました)、更に責任者の処分も既に新潟で戦死した色部長門を責任者とすることで、実質的に処刑者無しで済ませることができました。なお色部家は御家断絶となりましたが、その後数年で加盟再興させています。こうして上杉家の戦いは終わり、やがて廃藩置県を迎えることになります。
























