基本的に日本史を見る限り、大半の地域では戦国時代以前~と織豊時代以降とでは地域領主というのはガラリと変わります。そのため、ご当地の「顏」ともいうべき「領主」が誰になるかというとそれは地域が江戸時代にどういう「扱い」だったかで変わります。例えば、会津の場合は保科正之と会津松平家が二百数十年の支配が続き、しかもその「終焉」が余りにも強烈な悲劇となったことが「触媒」となったことで逆に結びつきを強くしており、その結果それ以前の領主と言うと蒲生はともかく、上杉や加藤、あるいは戦国以前の蘆名氏は極めて影が薄い。仙台の場合は江戸時代の初代が強烈な個性の持ち主だったのでそれ以前は葛西氏の時代については余り知られていない。逆に、上杉や武田などかつての統治者が去った後もその「英雄」たちが今でも強力な尊崇を受けているのは、それは江戸時代には大名家が頻繁に入れ替わったり、あるいは左遷地扱いされたりとどちらかというと「不遇」な扱いをうけているからこそ栄光ある時代の当主たちへの思慕の念を強めて行ったという側面があります。今回紹介する山形県都もまさしくそれでここでは最上義光の圧倒的な存在感がどこにいても感じられます。まぁ幕末に至っての経緯を見るとそれもやむなしと考える他に有りませんが・・・
 
〇最上の盛衰と共に
山形城の歴史は非常に古く、まさしく最上の栄枯盛衰を共にしたといっても過言では無いほどです。その原型は延文元年(1356)に羽州管領として山形に入った斯波兼頼が、翌年に築城したのが始まりと言われています。この斯波氏こそがのちに最上と改姓して、以降この地を支配、山形はその居城であり続けました。永禄6年(1563)に時の当主である義守・義光親子が上洛したときに京の公家は彼らを「出羽国之御所」と表現しています。当時の奥州で「御所」と呼ばれるのは陸奥国大崎の大崎氏(宮城県)と陸奥国浪岡(青森県)の北畠氏のみで、まさに彼らを中心として奥州は秩序社会を形成していました。そしてこの時の義光こそが現代でも山形の誇りとなっている人物であります。
 最上義光は天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥羽仕置によって、支配下に入り、その影響で山形城を本格的な近世城郭へと改修を計画します。慶長5年(1600)の関ケ原合戦で徳川家康に味方して上杉と戦い、その軍勢を食い止めた功績が評価され、庄内と由利地方を加増されて57万石、これは当時の日本全国の大名家でもベスト10に入る大諸侯となり、それに見合った更なる城の拡張と城下町の整備を行いました。しかし彼の没後には最上家では御家騒動に見舞われ、その結果は徳川幕府から減封による処分さえ、家中で合意が取れないほどバラバラに争ったことが仇となって、御家取り潰しとなったのでした、結局、近江大森(東近江市)1万石、さらには5千石まで減らされて大名としての身分さえも失う結果となってしまいました。その後、山形には鳥居忠政が入り、この時に城もほぼ現在の形になったと言われています。しかしその後もしばしば転封が繰り広げられ、最終的に幕末時には水野氏5万石という小藩となったのでした。当然ながら、かつての大城郭を維持できるはずも無く、末期には本丸は更地となり、三の丸の西半分も田畑となってしまった・・・という有様でした。
 
〇戊辰戦争後には殿様さえいなくなる
そして戊辰戦争が勃発すると当然ながら山形藩も奥羽越列藩同盟に加入。この時の藩主である水野忠弘は江戸にあり、更に先代の忠精(天保の改革で有名な水野忠邦の息子)もこの時山形にいましたが、秘かに江戸、そして京都に移動しており、藩主不在のまま分家であり家老である水野三郎右衛門のもとで同盟側で戦闘に加わる一方で藩主父子は京都で恭順の意思を務めるという二股膏薬で生き残りを図ったのでした。結局、最後は三郎右衛門が独断で責任を負う形で、処刑となりました。その後、明治3年には近江国東浅井郡朝日山に転封となったために廃藩置県時にはここは大名不在のままでした。
 
〇そして今、最上義光の栄光再び
明治の廃城後には、建物は取り壊されて、本丸堀も埋められましたが、第2次世界大戦後には山形市が払い下げを受けて、「霞城公園」として整備、城跡には野球場や美術館が併設され、市民の憩いの場となってきました。そして市政90周年事業としてこの霞城公園の整備とかつての城の整備を開始。往年の大城郭を山形のシンボルとして、約140億円かけた復元計画が現在進行形で進められています。
 かつて三の丸まででおよそ345万㎡と、全国の城でも屈指の広さを誇る城を再び取り戻そうというわけです。現在では二の丸堀の内側のおよそ33ヘクタールが国指定史跡に指定され、東北でも屈指の城としての姿を取り戻そうとしている山形城
現在でも山形では城に関する資料を探し、調査と復元工事が続けられています。復元作業が完了するのは2033年のこと。果たして新時代にこの城はどんな姿になっているのでしょう。

 

〇最上義光像はカッコいいぞ!

さて前回までの岩出山・新庄城は過去編でしたが、再び岩手からの直接的な続編として旅模様をお送りします。前日は自宅鍵を忘れたりととにかく散々であった前日。この日は仙台で早めに休んで本日の旅に備えます。今回は山形・仙台の両県都の城をめぐって一気に横浜まで移動するという大強行軍。というのも台風が接近してきており、このままでは翌日には近畿~東日本が移動不能になる恐れがあるためでした。さーて台風襲来の前日となるこの日の運命は如何に?

山形まで仙山線で移動。この時山形には8時前でまだ山形城の施設は開場していないので、一度JR左沢線に乗車して、左沢(あてらざわ)へと向かいます。

中間駅である寒河江駅

 

さくらんぼをイメージした駅名標

左沢線の愛称は「フルーツライン左沢線」、果物生産が盛んな山形県ならではの愛称ですね。

そして終着駅の左沢駅

ここは地元・大江町の交流施設と併設された駅舎となっていました。さて自分の恥を晒してしまうのですが、実は私は8年前にこの左沢線を訪問したことがあります。もっとも当時は強行軍に私の身体がついてこれず、しかも終電で引き返そうとしていたため、当然ながら夜間だったのでヘトヘトの状態で乗車していたために何と

「あ、ありのまま今起こったことを話すぜ!

俺は左沢から山形へと戻って休もうと思って列車に乗っていたら、

左沢駅で運転手に起こされた!

な… 何を言っているのか わからねーと思うが 

おれも 何をされたのか わからなかった

頭がどうにかなりそうだった… 寝過ごしだとか放置プレイだとか

そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ

もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ・・・」

最悪なことにそれはまさに終電。もはやこの夜間に山形まで交通機関で戻る術は無く、当時の私では野宿には耐えられる身体ではない。暗闇の駅に取り残された私が最後に縋ったは

この駅前のタクシー会社

ここからタクシーで山形まで確か30キロ近くを走行して山形市内まで帰ったのでした。ああ、あの時寝過ごしなどしなければあんな出費をせずに済んだのに・・・などと8000円以上の余計な出費。宿代よりも高い出費になっちまったぜ。

今となっては自分でもおかしくて笑っちゃう思い出です。さてこの近くには左沢楯山城(楯山公園)があるのですが、前述の事情により残念ながら断念。引き返すことにします。

左沢駅の駅名票は洋梨をイメージしたもの。

山形県一級河川である最上川
山形に戻ったのは丁度9時過ぎのことでした。
駅舎と連絡通路でつながっているのは霞城セントラル
山形でも一番の高さを誇る高層建築物で山形県・山形市や民間企業が入居する多目的ビルとなっています。1階の観光情報センターで山形城及び山形市一円の観光情報を仕入れることができました。
ここから山形城までは歩いて15分ほど
まじは二の丸追手門跡
山形の城の場合特徴的なのは石垣と土塁が併存されているところ。
門周辺や角の櫓台等重要な箇所には石垣が施され、それ以外の部分が土塁となっている感じです。
この南門石垣も仰ぎ見るぐらい高いところからもかつての大城郭がどれかでの大きさであったかを思い浮かべます。
二の丸内部
二の丸は現在では公園となっており、この日も多くの市民が散歩やジョギングなどで訪れていました。むしろ観光客の方が少ないくらい。
横矢となっている石垣構造
土塁上も散策路として整備されています。
坤櫓跡の石垣
上部は近年の復元であり、恐らくは下の色が変色している部分が残っていた(恐らくは土中に埋もれていた)ものなのでしょう。
西門
西門石垣

 

 
かつては不明門と呼ばれていました。
かつての山形城縄張り図
現在では二の丸から内部が国指定史跡として整備されていますが、三の丸部分は市街地化のなかでもわずかに土塁などが残存しているそうです。
そして二の丸と本丸を隔てる空堀
復元された「本丸一文字門」
本丸正面に建設された正門であり、
門の復元作業はまずは土台の石垣の修復復元からおこわ慣れました。まずは残存していた乱積、及び布積による石垣をもとに堀底から13メートルを積み直されました。
 
大本は江戸時代後期の絵図をもとに復元され、事前の発掘調査では、絵図には無い石垣も発見されています。
高麗門及び土塀
復元にあたっては先に復元された二の丸東大手門の高麗門を参考に木造で復元されました。
一文字門は枡形構造になっており、この石垣の上部には長さ約47メートルに及ぶ「一文字櫓」があったとされますが、残念ながらここだけ当時の資料が見つからず現在でも復元予定の無いままです。進路を90度曲げることで侵入する敵兵を足止めする目的があったとされます。
本丸御殿
井戸跡
現在でも発掘調査が続けられており、既に最上時代の御殿と思われる礎石建物も見つかっております。
一部はきれいに整備されていました。
内側から見た一文字門内部
 

大手橋

本丸空堀部分には発掘調査で大量の石垣の石材が発見されました。これは本丸石垣の部分が江戸時代に崩れてそのまま放置されてしまったもの、と考えられ「石垣崩落」という歴史的事実を残すためにそのままの状態におかれています。それでは再び二の丸内を散策してみます。
山形市郷土館
明治11年に県立病院「済生会」として建築され、国重要文化財に指定。昭和44年に現在の場所に移築されました。
 
 
そしてもっとも目につくのはこの銅像
最上義光騎馬像
上杉家の重臣・直江兼続が最上領に侵攻した際に自ら陣頭指揮をとって決戦の場へ向かう雄姿をイメージしたもので山形鋳物で再現されました。個人的には戦国武将の像は多々あれどこれほど勇壮で格好良い像は他にないと思ってしまうほどですが、皆さん如何でしょう?甥の「独眼竜」の騎馬像よりも格好いい、いいぞ。
山形城のシンボルとなっている場所である二の丸東大手門
こここそが最初に復元された建物であり、山形城の「顏」にあたる部分です。
山形城二の丸大手(正面)にあたる門で枡形構造をしており、櫓門・続櫓・高麗門及び土塀で構成されていました。軍事的機能だけではなく、藩主の威厳を示す役割も持っていました。復元にあたっては江戸時代中期堀田氏時代の資料が一番多く残っていた為にそれを参考にされました。
現在でも櫓門内部は公開されており、ここで最上及び山形城の歴史が展示されています。
特に最上義光と長谷堂城合戦についてはそれこそ詳細に。
東大手門
高麗門つづ
続櫓
すぐ傍にはJR奥羽本線(山形新幹線)の線路が走っています。
線路は複線ですが、よーく見ると左右でレールの幅が違うのが分かります。左が奥羽本線と山形新幹線用、右が仙山線と左沢線車両専用のレールです。軌間が違うとこうしてそれぞれ別々になってしまうわけです。
現在でもこの東大手門は城のシンボルとして人気を集める場所です。
その外にあるのは「最上義光歴史館」
ここの展示の主役はズバリ義光の娘で「殺生関白・秀次」夫人となったために非業の最期を遂げた駒姫が主役の構成となっていました。
それでは山形駅に戻り、次は義光の甥の城を目指すとしましょうか。参考までに三の丸までの城郭面積では
1位 江戸城          2082ヘクタール
2位 大坂城(豊臣時代)  400~500ヘクタール(推定)
3位  小田原城       348ヘクタール
4位  名古屋城       300ヘクタール~(推定)
5位  山形城        235ヘクタール
≪参考文献≫
飯村均・室野秀文(編)『東北の名城を歩く 南関東編』 2017 吉川弘文館
 
〇アクセス
JR奥羽本線山形駅から徒歩15分
 
・霞城公園
開館時間   5時00分から22時00分(4月1日~10月31日)、5時30分から22時00分(11月1日~3月31日)

年中無休、公園内部は無料(ただし施設については有料)

・二の丸東大手門櫓

開館時間  9:30~16:00(特別イベント期間には延長の場合あり)なお公開は4~11月でそれ以外は閉鎖
入館料無料
・最上義光歴史館
開館時間 9:00~17:00
入館料   無料
休館日   月曜日
☆城に関するパンフレットは二の丸東大手門櫓内部にて配布
 
「山形城に狼煙が一本・・・」