〇美作は中国地方の「荊州」
 
岡山県北部、丁度山陽地方と山陰地方の中央部にある美作国は統一した権力が育たず、常に周辺勢力の支配者の草刈り場となっていました。いずれも当時の勢威を誇る大名が支配に乗り出して、結局新勢力の台頭で全てを失うというパターンが繰り返されました。驚くべきことにその激しい争奪戦は戦国時代から更に早く南北朝時代から繰り返されたのでした。
西部にある美作岩屋城はまさに常にその周辺諸国の侵攻に翻弄された美作国の象徴ともいうべき城と言えるかもしれません。
 
①美作争奪戦第1ラウンド:赤松VS山名
岩屋城ができたのが嘉吉元年(1441)のことですが、その歴史を振り返るためには南北朝時代に遡らせないといけません。南北朝時代に鎌倉幕府崩壊後に中国地方で台頭した大名が2家ありました。西播磨の土豪出身の赤松氏、清和源氏の東国武士であり但馬の山名氏。奇しくも山陽地方と山陰地方をそれぞれ地盤とする両氏はいずれも足利幕府の下で頭角を現しました。当初は赤松氏が美作守護となりますが、南北朝時代中期には山名氏が美作守護に任じられました。
そのため、両家は美作はウチの領土!という意識が強くこれがその後の争奪戦への伏線となりました。
やがて山名氏は十一か国もの守護を手にしましたが、余りにも巨大になりすぎたために3代将軍・足利義満は明徳の乱で弱体化させ、これによって赤松氏が美作守護となり、赤松氏支配となりました。しかし転機となる大事件が発生。
嘉吉の変で赤松満祐が6代将軍・足利義教を暗殺するという重大事件を引き起こしたのでした。
そして山名持豊(後の宗全)が討伐に功を立て、この結果赤松家は一時滅亡。美作は山名氏が奪回したのでした。持豊は一門の山名教清が守護職として任命。この時に築かれた城こそが美作岩屋城でした。しかしそれは美作の安定を意味しませんでした。むしろこの城の登場はやがて来る戦乱の時代の幕開けとなったのでした。
なお岩屋城は西に偏り過ぎていたためにに、教清は叔父の山名忠政を守護代として津山鶴山(のちの津山城)に城を築かせ、東方への備えとしました。やがてそれから20年後に「応仁の乱」が起こり、山名正清(教清の子)と忠政は宗家の山名宗全が西軍総大将となったためにこれに従い出兵に出ます。しかしそれは失地回復を狙う赤松政則にとって絶好の機会でありました。既に東軍の細川勝元から赤松家再興の約束を取り付けた政則はこの留守を突いて岩屋城を落として落城。そして文明5年(1477)に美作守護は再び赤松政則となり、城主は大河原忠久が配置されました。
 
②美作争奪戦第2ラウンド:浦上VS尼子

戦国時代の到来とともに赤松・山名両家は共に衰退していき、それに代わる新勢力が台頭します。山陽は浦上氏、山陰は尼子氏がそれぞれ勢力を拡大していったのでした。まず、赤松家の家臣であった浦上村宗が主家に背き、岩屋城を奪取。赤松家はこれを奪還しようとしましたが、結局果たせず美作は浦上氏のものとなります。その後天文13年(1544)今度は尼子氏が侵攻、当時の城主であった中村則治は浦上家を見限り、開城。城は尼子氏領国となり尼子氏の家臣であった芦田秀家が置かれました。

 

③美作争奪戦第3ラウンド:宇喜多VS毛利

尼子氏もやがて新たな戦国大名・毛利氏の台頭によって衰退していき、遂に永禄9年(1566)に尼子氏そのものが滅亡、岩屋城主の芦田正家(秀家の子)は宇喜多氏の傘下に投じました。もっとも宇喜多直家は正家のやり方を憎み、謀殺されて家臣の浜口家職が城主となりました。やがて宇喜多と毛利が敵対関係となると毛利輝元は攻勢を強め、天正9年には岩屋城は毛利軍の前に落城。今度は毛利家家臣の中村頼宗が城主となります。しかし織田家の増援を得た宇喜多家は反撃に転じ、天正10年(1582)備中高松城の戦いで織田家(実質は羽柴秀吉)と毛利家の間で和議が成立。この時の条件で備中の高梁川以東の毛利領は織田・宇喜多家に割譲することが決められました。この結果岩屋城も宇喜多領となることが決定したのですが、これに中村頼宗は激しく抵抗。天正12年(1584)には宇喜多軍の軍勢が包囲しますが、岩屋城は激しく抵抗。秀吉は当時毛利方にいた足利義昭に調停を依頼。羽柴方からは黒田官兵衛・蜂須賀小六、毛利家からは井上新兵衛が派遣され、交渉の末に美作の毛利方の城郭は全て開城となることがようやく決着。ここにようやく美作の争奪戦は終了。岩屋城主には宇喜多家臣の長船越中守が任命されました。

そして天正18年(1590)に岩屋城は野火により焼失、まもなく廃城となりました。既に美作は宇喜多領として安定的支配に乗り出されており、もはや険しい山城は不要となったことを象徴するかのように岩屋城はその150年に及ぶ争奪戦の歴史の幕を閉じたのでした・・・・

 

〇姫新線紀行

姫新線は姫路から中国地方山間部を通り、津山そして新見まで結ぶ長大路線ですが、今では全線通しで走る列車は一本も無く、何度か乗り換えていきます。もう鉄道ファンでないとわざわざ鉄道で利用する人もなかなかいないローカル線です。
まずは姫路駅から乗車。兵庫県を走る区間は姫路近郊を走ることから列車の本数もそれなりにあり、通勤路線として機能しています。
佐用駅
ここは地図急行の乗り換え駅であり、丁度特急「スーパーはくと」が入線しているところでした。
ここから一駅向こうの
上月駅
ここは以前上月城で訪れた兵庫県と岡山県の県境部分
ここから先は本数は激減します。
美作江見駅
林野駅
かつてはここも優等列車が走る重要な幹線だったのでしょう。この長大なホームを見ると僅か1両(ラッシュ時でも2両)しか走っていない現状では持て余してしまっている感があります。
やがて岡山県北部の重要なターミナル駅となる津山駅に到着
ここは新見・岡山・鳥取・姫路と4方向を結ぶ重要なターミナル駅・・・・でしたが、今となっては本数の少ない普通列車のみが行き来する状況です。
ここから乗り換えで更に奥地へと向かいます。
美作追分駅到着
ここから目標の岩屋城までは歩いて30分ほど。国道181号線を真っ直ぐ津山方面を目指すと迷う心配はありません。
丁度麓部分は農家などがあり、岩屋城夢の広場という表示があるのですぐわかりました。
この辺は昔ながらの農村風景が広がり、ある意味かつての面影を色濃く残されているのがありがたい。
そのため、あちこちにかつての岩屋城包囲網を築いた陣城遺構も各所に残っています。
特に民家背後にある荒神上陣城は最後に紹介しますが、なかなか良い保存状況です。
田畑となっていますが家臣団屋敷跡
その谷間を進むように奥へ奥へと進んでいきます。
 
登山口
パンフレットより
さてここからが岩屋城最大の難関
草ぼうぼうで道を進むのにも一苦労します。
慈悲門寺下砦跡
慈悲門寺跡
城を登ってすぐに出くわすのが平安時代に開基したといわれる寺でした。築城よりも500年も前の話です。この寺もすぐ下が砦となっていたのが象徴するように戦いの舞台となっていました。今では石段やわずかに石などの礎石が残るのみです。
山王宮拝殿跡
ここは近江日吉神社の山王狭間を祀っていたといわれています。この奥にその岩窟があるそうですが、そこまで行けない人用にここで拝殿したと言われています。
大手門跡・・・・といっても表示板が無いと判別すらできない状態ですけどね。
水門跡
龍神池と拝殿
ここは初代城主・山名教清が山名氏本拠地の伯耆より龍神を勧請して城の鎮守地としていました。現在でも池に水が張っています。
 
歩いて40分ほどして到着した場所が馬場跡
ここからは今までの雑草で覆われていたのがウソであるかのように開けたばしょとなっていました。
ここは城内で最大の郭であり、将兵が詰めかけていた場所とされています。
ここからの津山市街方面が良く見渡せます。
本丸跡
登城口から45分して遂に本丸到着
標高482メートル、この場所からは城内各所を一望でき、北側には「落とし雪隠」と呼ばれる垂直に近い断崖となっています。
信じられないことですが天正9年の毛利軍の攻撃の時、決死隊32人が風雨の夜にここをよじ登って火を放ち城を落城させたと伝わります。
流石に怖くてこの先に進めません。
二の丸跡

さて岩屋城最大の見所といえば何よりも東方のてくのぼり跡です。

 
大堀切
二の丸の北側、深さ6メートル、幅7メートルの堀切で城内最大のものです。てくのぼりはここから始まります。
そしてこれがてくのぼり跡と呼ばれる竪堀
写真からだと判別しづらいですが、肉眼で見れば結構すぐわかります。
 
 
この堀が延々12本も連ね幅6メートル、深さ2メートル(当時はもっと深かった)が12本も並んでいます。攻め上る敵側が横移動できないようにする防備でした。
麓にある自害谷と呼ばれるおどろおどろしい名称の谷
 
さ手最後に最後の包囲戦となった宇喜多軍の陣城であった荒神上陣城跡を探索してみます。
ここも結構地形がかつての遺構が良好に保存されており、
堀などが鮮明でした。
虎口跡
 
美作岩屋城は訪問するのもなかなか一苦労する城ですが、その分後世の手が入っておらず、かつての城跡の遺構が良好に保存されていました。かつてここは何度も激しい争奪戦が繰り広げられ、凄まじいほど所属を変えてきた激戦地に思いをはせるロマンを感じられます。
 
〇アクセス
JR姫新線美作追分駅から徒歩30分
津山駅から津山市広域バスごんご久米線西循環路線バス40分(1日4本)
そこから本丸まで45分
・津山駅前観光案内所にてパンフレット有
 
「美作岩屋城に狼煙が一本・・・」