このシリーズタイトルだけでも筆者の「底意」が隠しようもありませんね。実は私、(日本)史上最も好き人物を2人挙げるなら
武田勝頼と石田三成
なんですが、逆に嫌い・・・というより憎悪する人間は誰かというと
武田信玄と豊臣秀吉
なのです。四郎と治部が好きでその実父と旧主が嫌いというのは矛盾極まる話ですが、私の中では明快な理由があります。先月の「武田勝頼」編が勝頼への全面弁護と同時に信玄disで占められていましたが、彼ら2人が最終的に敗滅に追い込まれた原因は大抵先代が遺した負の遺産が元凶と言っても良いのです。三成の場合はといえば、そもそも豊臣家が最終的に敗滅した原因は何かと言えば、一に身内の粛清と本来一番警戒しなければならなかった徳川家康を政権の最大実力者としてしまったこと、またその他諸々の苛烈な大名統制と粛清で遺恨の種をばら撒いてたことにあるのです。そして四郎と治部はその「負の遺産」を清算しようとしましたが、彼らは最終的に失敗した・・・というのが私の認識です。そして滅亡の原因をばら撒いてきた人間がそれが顕在化する前に運よく死ねたことで「英雄」の名を欲しいままにし、逆にそれを清算しようと奮闘した人間が能力あるいは人格面で(時には史実を捻じ曲げて)貶められる、彼らが好きな人間にとってこれほど怒髪天を衝くことはありません。そんなわけでここから述べる内容は基本的に史実はそのまま、かなり意地悪く書かれています。但し勿論業績や才幹を否定する内容でもないこともここで述べておきます。
 
○秀吉の播磨平定戦
天正5年(1577)10月、羽柴筑前守秀吉は主君の信長から播磨平定を命じられ、姫路に下りました。この時期の信長の基本戦略は大敵・石山本願寺の封鎖に主眼が置かれており、その為に中国地方の覇者・毛利家の侵攻を防ぐ必要があったのです。とはいうものの、この時秀吉が直率していた兵力は7~8千。兵力不足は否めなく、ここで何としてでも必要であったのは播磨の領主達を味方に付けることでした。播磨の実力者は西部は龍野城の赤松氏、中部を御着城の小寺氏、そして東部を三木城の別所長治の3名であり、彼らはそれぞれ播磨の取次をしていた荒木村重を通して織田家に服属していました。秀吉は、別所一門の別所重棟(長治叔父)と小寺家家老の小寺官兵衛孝高を懐柔して、大きな権限を与えて彼らを通してコントロールしようとします。ちなみにこの小寺官兵衛こそ後の黒田官兵衛その人です。
これは見事に図に当たり、重棟と官兵衛はまるで秀吉の家臣のような熱意で奔走し、それぞれの主家を掌握したのです。これによって秀吉は備前の宇喜多直家が占領していた国境の上月城と福原城を除く播磨のほぼ全土が一月足らずで秀吉の支配下に置かれました。
 残る2城の攻略では秀吉の本性が発揮されました。元々秀吉は博愛主義者でも人道主義者とは無縁の人物であり、全ては経済的感覚、すなわち損得勘定で動いていました。最も悪い意味での合理主義者でした。
 上月城陥落に際しては女子供に至るまでことごとく殺戮し、その屍を国境に晒し、福原城では将兵250名を容赦なく撫で斬りとしたのです。
敵対者に対する容赦ない見せしめ、古今東西行われてきた恐怖政策でしたが、それは同時に諸刃の剣でもありました。
 
○別所長治の蜂起
きっかけは天正6年2月の加古川会談のときでした。秀吉との意見喰い違いを理由に別所氏が毛利に味方すると表明、ここに別所氏は敵対勢力となったのでした。秀吉は直ちに3月29日には三木城を包囲しますが、そこで自らの認識の甘さを思い知らされることになりました。
三木城は美箆川の屈曲部を背にした丘陵上に位置して庵、3000を超える兵力で篭っていました。三木城の支城群を合わせると7~8千もの兵力になり、まさに東播磨守護という実力が示す通りの勢威でした。事態を重視した信長は、後継者である信忠をはじめ、滝川・明智・荒木らまさに織田軍の方面軍司令官クラスを総動員して、三木城包囲に移ります。これによって支城を各個撃破させ、8月17日には主将の信忠は岐阜に帰還しました。以後は再び秀吉の直接指揮となりますが、兵力不足であり以降包囲戦に切り替えます
「三木の干し殺し」として名高い三木合戦の始まりでした。付け城を巡る攻防戦についてはまた明日の「平井山本陣」で紹介しますが、別所側は間もなく追い詰められ、補給路を断たれます。天正8年になり、頃合い良しとみた秀吉は本格的な三木城攻略作戦を開始。宮の上要害、鷹尾山城などが陥落した所で、城主・別所長治が一族の自害と城兵の助命を条件に秀吉に降伏し、三木城は開城しました。1月17日に別所長治・友之兄弟は自刃、別所家を反織田へと主導した叔父の賀相はなおも抗戦を主張して、城兵に殺害されました。
城主が城兵の身代わりとなって自刃し、戦を終結させる「型」を残したとして長治はいまもなお地元の三木市の人々から慕われています。

 

○三木合戦以降

合戦終了後、秀吉は占領地慰撫のために荒廃した三木の復興を計画。地子免除・諸役免除の特権を認める制札を出しました。これをよりどころに復興した三木町は、江戸時代以降地域経済の中心地としての役割を担い続けることでができました。江戸時代には三木町は幕府領、あるいは周辺大名8家10藩の領地となる激しい移り変わりです。その間に「金物の町」として有名な大工道具の生産拠点として栄えることになりました。
 
○別所長治の遺徳
神戸電鉄新開地駅から粟生線で三木へと向かいます。粟生線は赤字が続き、最近でも存廃が大きく議論されている状態です。果たしてこの路線の動向がどうなるか気になります。
そして三木上の丸駅にて下車。三木城はこの駅から僅か5分に位置します。
何しろホームから既に塀が見えている状態なのですから。さて本来の三木城は現在の幹の街並みそのものが城郭という大変広大なものでしたが、当然のことながら市街地化されて、現在では本丸のみが公園となっている状態です。
本丸にある稲荷神社
僅かに道路部分がかつての空堀であったことを窺わせます。
ここから本丸公園部分以外は幼稚園や図書館や金物資料館など三木の閑静な文化地区となっています。むしろこの静かさは嫌いではない。
かつての三木城縄張り図(想像図)
現在の本丸部分
三木城中心部分
ここには三木合戦図の絵巻ものなどが掲げられていました。一応「天守台」と伝えられていますが、勿論「伝」です。当時は天守は無かったでしょう。
別所長治銅像と慰霊碑が建立されています。
「今はただ恨みもあらじ、諸人の命に替はる我が身と思へば」

カンカン井戸

本丸にある巨大な井戸で、名前の由来はここに石を投げると「カンカン」と音がすることから付けられたと言われています。抜け穴説もあるということです。

そして崖部分にある塀

ただしこの塀は近代になってから建てられた模擬であること。

 

さてここまで探索していましたが、資料などがないか模索していた私は近くの金物資料館に立ち寄ることにしました。ここは「金物の町」である三木の金物製品3500点を展示している資料館で、こちらもなかなかの見所でしたが、私にとって最大の収穫は

三木城に関する資料やパンフレットその他史跡を記した地図を入手したことでした。

よっしゃ、これで平井本陣を訪れることができる、と次なる目的地を目指します。

 

○アクセス
神戸電鉄粟生線三木上の丸駅より徒歩10分
・三木市立金物資料館
開館時間 10:00~17:00(無料)
休館日   月曜日(祝日の場合は翌日) 12月29日~1月3日

三木城に関する資料・パンフレット有

 

「三木城に狼煙が一本・・・」