~武田勝頼といえば、「勇気はあっても知恵の足りない勇将」などとかくとかく「武将」としての側面しか見られていない。ここでは大名家当主である以上、統治者として内政及び外交の手腕を見ていくことにする。果たしてただの猪武者が長篠の大敗後に武田家を保てたのだろうか~

 

○長篠の戦い後の危機的状況

天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いにおいて武田勝頼は大敗した。被った損害は過去の幾度かの敗戦の比ではなく、多くの兵士が戦場に斃れ、歴戦の宿将や中級指揮官の多くを失うという人的損失は目を覆うばかりであった。勝頼にはこの大敗の敗戦処理と軍備の再建、そして一気に攻勢にでた織田・徳川方の攻勢への対処を迫られていた。この天正3年秋の段階で武田家は美濃・三河・遠江の多くの城を失陥していよいよ信濃へ攻め込む勢いであった。この時点で信長は越前一向一揆を殲滅して、本願寺と一時的に講和に持ち込むことで武田に対して圧倒的に優位な状況にあった。この時点では信長は毛利・上杉とは(表面上)友好関係にあり、大名クラスで信長と敵対関係にあったのは唯一武田家のみという状況であった。武田を「天下静謐」を乱す唯一の存在と規定し、これを討伐を喧伝しており、武田家内部にあっては調略の手を延ばし、更には上杉謙信との挟撃によって一気に武田との戦争に決着をつけようとしていたーこれが天正3年時点における武田勝頼を取り巻く状況であり、これに対する内外の対応は一つでも対応を失敗すればすべては崩壊しかねない状況にあった。勝頼は苦境からの挽回を目指して全身全霊で対処することになる。

 

○戦死者への遺族補償と相続

まず山積みの問題の中で緊急の課題は多数の戦死者への遺族対応であった。当時も、主君のための戦死は重要な軍忠であるあら、弔意を示すことは勿論、遺族などの関係者に恩賞(遺族補償年金)を与えねばならない。これが戦いに勝って領地を奪ったならば、それを分配すればいいだけであるが、大敗して領土を大幅に喪失したのだから当然無い袖は振れない。

天正3年7月2日付け、山家近松斎宛ての勝頼書状(『武家事紀』三三)の内容

「こたびの長篠の戦いでの折、御子息の藤九郎(山家昌矩)が奮戦の末名誉の討死したという忠節には感激しました。彼の弟である左馬允に跡目を相続させることは了解しました。勝頼としても懇切に扱い、身上を引き立てることをお約束します」

このように将来の引き立てることを約束している。ここでは、これこれの土地を与えるといった実質的な恩賞には触れていない。この戦後処理は勝頼が甲府へ帰還した6月2日からただちに開始され、軍忠への称賛、死者の弔意と天正5年まで延々と続いている。それらの文書にはしばしば「奉公が大事である」とか「一層の奮励努力に期待する」とかといった文言があり、当然遺族からは恩賞を求める声が高かったのであろう。無論中には経済的苦境を配慮して遺児に加増した事例もある。

もう一つ大事なのは戦死者の家の相続問題である。勝頼は基本的には遺族からの申請に応じて対処するという形式をとった。進んで家督相続者を申し出て、戦列復帰してくれるのは有り難いことである。12月には、勝頼は軍役条目を改定して、親軍法を通達している。

来年尾張・美濃・三河・遠江のいずれかに出陣して、「当家興亡の一戦を遂げる」と高々と宣言した。その上で、近年隠退した者や、知行地を失って蟄居中の者から武勇に優れた者を選抜して、既定の軍役量を超えた動員を行うように命じた。そして渦中の親類や家臣の中で武勇に優れた働きをしているものをリストアップして上申せよ、今後は特別懇意にして、忠節に従って武田から直接恩賞を与えるとしている。

そして一番強調されているのは、武装に関するもので定められた武装で参陣して、見苦しくないようにせよ、可能ならば新調せよ、と命じられている。また装備では「鉄砲が肝要であるから、今後は長槍を略しても、才能ある足軽に鉄砲を持たせて連れてくるように」とある。これを長篠の敗戦での教訓とされているのが一般的であるが、実は同内容は信玄の時代からも繰り返し述べられている。重要なのは弓・鉄砲をきちんと鍛錬していない者は参陣してはならない、とある。

 さて翌年からは本格的な軍役改定書を発布してある。その中で遺族の相続についても勝頼ら武田家首脳部の意図を組んだ相続をするようにしていることである。例としては長篠の戦いで当主・真田信綱と昌輝兄弟が戦死した真田家を紹介しよう。彼らの遺児はいずれも幼く、そのため後継とされたのは当時武藤家に養子入りしていた弟の昌幸であった。この相続は当主・勝頼の指名によって行われた。

通常の戦国の慣例に従えば、昌幸は信綱の遺児が成人するまでの名代、つまり中継ぎ当主にすぎない。だが、亡父信玄から「我が眼」と呼ばれたほどの才幹で、なおかつ年も近い昌幸を勝頼は買っており、そこから正式な真田家当主として家督相続させた。そして、真田家内部での不平・不満が生じないように、信綱の娘(清音院殿、大河『真田丸』で「おこう」にあたる女性)を昌幸の長男・信幸と婚約させ、信綱の家に配慮している。(もっともそれでもやはり家臣の反発は強かったようで、昌幸は「家伝文書」の相続を放棄して、信綱遺児に与えることで一定の配慮を示した)ここに後に戦国の歴史に大きく名を遺した真田安房守昌幸と二人の息子たちの物語が誕生することになるのである。

家督相続はこのように不平不満が生じないよう、最大限配慮しつつ行われたのである。

 

○幹部職ポストの後任人事

敗戦処理として最大の重要であったのは長篠で斃れた重臣たちの後任問題である。武田家を支えてきた宿老たちは当然それぞれ重要な役職についていた。それらの後任を速やかに行わなければならない。まずは駿河・遠江といった東海方面を管轄する山県昌景の後任である江尻城代には一門の穴山信君(のちの梅雪)が宛てられた。これは当時東海方面は家康の攻勢に晒されており、早急な対処が必要であったためである。その他のポストについてはそれぞれ子息や兄弟が相続されたが、彼らはまだ能力が未知数である。その為、信玄以来の譜代家臣の系統の力は弱まり、逆に勝頼側近の家臣団が台頭することになった。宿老のなかで健在なのは海津城代の春日虎綱ぐらいであり、皮肉なことであるが、勝頼の政策の進行をよりスムーズにしやすいようになる、という効果をもたらした。何事も「ピンチをチャンスに変えろ」である。

 

○内政振興と経済への取り組み

同年10月、勝頼は伝馬制度の改定制度に乗り出している。伝馬とは、宿場ごとに義務付けられた人馬運送のための継ぎ立て制度であり、戦国時代の交通制度である。勝頼は今後、公用の伝馬利用許可手形において公私の区別をつけ、わかりやすいものとした。私用の場合は口付銭(手数料)として六文を徴取せよと定めている。また公用の伝馬についても、緊急時以外は1日の利用限度をさだめて、伝馬を管理する伝馬宿の負担軽減を行っている。この改定が勝頼の伝馬政策の基本となり、以後必要に応じて各宿場に定められている。勝頼は長篠敗戦の混乱のなかでも、精力的に内政改革に取り組んでいた。また信玄時代には莫大な軍事行動において大きな原資となっていた金山資源が枯渇し始めていた。これは武田家の財政に大きな打撃を与えることになり、新たな経済政策を用意する必要が生じていた。

 勝頼は信玄時代から既に始めていた商人を登用する政策をさらに発展させている。武田家というとやたら「織豊に比べていると時代遅れの存在であった」というイメージがあるが、とんでもない事実誤認である。事実は武田家も他の大名家も大きく異ならないのである。

 

○外交による挽回を図る

さて先述の通り、信長は長篠合戦直後には上杉謙信に書状を送り、、信濃への出兵を要請している。この時、織田軍は美濃岩村城を陥落寸前に追い込み、更に武田家内部でも内応する国衆(伊那大島城の項参照)が出てくる状態にあった。ここで織田・上杉による共同出兵があれば、それこそひとたまりもない。信長はしばしば謙信に好機到来である、ことを強調している。

 だが結局この計画は未完のまま終わった。勝頼は長篠戦後に上杉との和睦を打診していた。7月に信長は上杉家臣の村上国清(信玄によって信濃を追われた村上義清の息子)に対し、「約束通り信濃を攻めてくれるとおもっていたにも関わらず、すぐに引き返して越中に軍勢を動かしてしまわれたのは何と言ったらいいのかわからない」と謙信の不実を詰っている。述べている。10月中には武田・上杉間で和睦が成立した。信長としては戦略が大きく狂ってしまい、岩村城陥落に続く信濃侵攻は中止せざるを得なくなった。

 そして勝頼にとって大きな助け舟となったのが信長によって京を遂われた将軍・足利義昭であった。当時打倒、信長に萌える足利義昭は信長と接する大名に信長打倒を呼びかけており、そのために武田・上杉・北条の東国の3大大名に対して「三和」の和睦調停に乗り出してきた。無論これは勝頼にとっても願ったりかなったりであり、異存は無かった。また北条氏政も義昭に対して異存はないと上杉との関係修復に積極的であった。ここで武田・上杉が和睦が成立したことで武田は織田・徳川方面へ全力を注ぐことができる。

 更に天正4年に事態は大きく変化した。西国の大大名である毛利輝元が織田との断交に踏み切ったのである。そして勝頼は輝元に書状を送り。同盟締結を呼びかけて、ここに武田・毛利間の同盟(『甲芸同盟』)が成立した。同年には永年敵対関係にあった上杉と本願寺が遂に和睦して、謙信は改めて信長との断交に踏み切った。これによって足利義昭を黒幕とする武田・上杉・毛利・本願寺による対信長同盟が成立。世に言う「第二次信長包囲網」の成立である。かつての第一次に比べると織田は飛躍的に勢力を拡大させていたが、それでもこれは重大な危機であり、最早武田征伐どころではなくなってしまった。勝頼は更に毛利氏の同盟国である西国伊予の河野道直にも同盟をもちかける書状を送りこれも快諾された。

 

○北条との同盟強化と縁組

天正5年(1577)、勝頼は隣国の重要な同盟国である北条氏政との同盟強化に乗り出した。武田と北条の関係は信玄時代の敵対時に勝頼の姉である氏政正室の黄梅院が離別させられて以降、婚姻関係を欠いており、同盟関係に脆弱さを抱えていた。また上杉との和睦は北条との関係を不安定にする危険性があり、(特に武田側にとって)同盟強化が必要であった。『北条記』では勝頼が氏政の旗下に入るという条件で婚姻が成立したと伝えている。恐らくは武田側が強く望んで氏政に対して要望したことが北条側にはそう受け止めたのであろう。こうして氏政の妹である桂林院殿と呼ばれることになる北条夫人が勝頼の継室(勝頼は信長養女である先代の正室と死別していた)として迎えられることになった。『甲陽軍鑑』では春日虎綱は婚姻が実現した時に「長篠敗戦後、今夜初めて安心して眠ることができる」と大いに喜んだという。恐らく婚儀の時は甲斐の国中が心から祝福したのであろう。

こうして勝頼は長篠の戦いでの大敗で陥った危機を外交により挽回した。上杉・毛利と対信長での共闘が実現、さらに背後の北条との同盟強化で背後を安定させ、長篠の戦いによる損失から回復次第、もう一度織田・徳川との再戦に乗り出すという勝頼の方針は実現に向かいつつあった・・・・

 

 だが一つの問題が暗い影を残していた。先に将軍義昭は武田・上杉・北条の東国三大大名が「三和」での対信長戦争への参加を呼び掛けていた。武田⇔北条、武田⇔上杉はそれぞれ同盟と和睦により、成立した。ところが最後の上杉⇔北条の和睦だけがどうしても成立できなあったのである。義昭は天正3年、そして4年と2年にわたり調停したが、

上杉謙信「和睦は武田だけならば応じるが、北条との和睦だけは受け入れられない。たとえ滅びることになっても、将軍義昭公から勘当されることになろうとも北条との和睦だけは絶対応じるつもりはない」

ときっぱり拒絶した。かつて謙信は信玄の時代に一度北条と同盟を結んだが(「越相同盟」)、同盟に積極的だった北条氏康が死に、氏政の代に反故にされたこと、さらに北条との同盟で関東の国衆からそっぽを向かれてしまったこと(謙信は後に「あれは本当に愚かなことで自分でも大馬鹿者と思っている」と反省の弁を関東諸氏に述べている)で北条家への敵対心を消せなかったのである。わざわざ越相同盟の時の氏政の起請文を神前に捧げて「氏政をなにが何でも討伐する」と呪詛したほどである

結局、この甲相越(武田・北条・上杉)の三国和睦構想は遂に実現をみないまま消滅した。そして北条と上杉は北条家が滅亡するまで遂に宿敵の関係であり続けた。もしこの時、三国が和睦して一体となって信長との戦争に乗り出していればどうなっていたかは分からない。無論ただちに信長が滅ぼされることはないであろうが、少なくとも信長の天下統一の歴史は大きく変わっていただろう。その意味ではこの謙信の決断は隠された歴史のターニングポイントと言えるかもしれない。そしてこのことが後に武田勝頼、北条氏政、そして謙信の二人の養子である景勝と景虎の命運を左右することになる…。

 

≪参考文献≫

平山優『武田氏滅亡』 角川選書 2017

丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』 平凡社 2017