転機は北の方から突如降って湧いたかのように訪れた。越後の軍神・上杉謙信の突然の死とその後訪れた後継者たちの内戦「御館の乱」の勃発である。勝頼はまたしても巨大なリスクを伴う選択を強いられることになる。父・信玄が成し遂げられなかった日本海を臨む上越の地に足を踏み入れた勝頼の取った決断。そしてそれは戦略環境の激変をもたらすことになる…

 

○複雑な外交関係によってもたらされた安定

天正5年(1577)武田・上杉・北条では奇妙な形で「平穏」であった。先述の通り、将軍・足利義昭主導で進められた三国和睦構想は最後に上杉謙信が北条との和睦に首を縦をふらなかったために雲散霧消してしまった。その結果、武田勝頼は微妙な立場に立たされることになっていた。北条とは同盟を強化する一方で、上杉とも和睦を結んでいるーではもし北条と上杉が本格的な武力衝突が発生した時はどう対応するのか?西方に織田・徳川という大敵を抱えている勝頼としてはここでどちらか一方に味方するのはもう一方を敵にまわすということだけは避けねばならない。そしてこの年の勝頼にとっては幸運なことにこのジレンマに直面せずに済んでいた。

謙信は当時西方への攻勢に向いていた。一方、北条も上杉に対しては積極的な攻撃をかけず傍観していた。そしてこの状況は勝頼にとっても好都合な状況であった。

勝頼は謙信の目が西方に向いてくれれば、織田・徳川に戦力を集中できる

氏政は謙信の目が西方に向いてくれれば関東制覇に専念できる

そして謙信は勝頼・氏政が手を出してこないことで西方(信長との戦争)に思う存分暴れられる

かくして三者の利害が奇妙な一致を見たことで表面上は和睦はしていないが、三者はそれぞれ敵対行動を控えていた。謙信は加賀手取川の戦いで織田北陸方面軍に勝利。この時の謙信は

「織田は案外と弱いようだ。この調子なら天下を得ることも容易いであろう」

と非常に自信に満ち溢れた書状を披露している。それにしても常人なら「大言壮語」「慢心」の誹りを免れないような文言のオンパレードであるがそれに妙に説得力を持っているのが「軍神」と呼ばれた名将が常人とは異なる感性の持ち主であるゆえだろうか。だがこの後謙信は一度越後に帰還して次の出陣に備えることになるのだが、上杉謙信と織田信長の直接対決はとうとう陽の目を見ることは無かった。

天正6年3月9日、上杉謙信は春日山城内で斃れて意識不明の重態に陥り、3月13日に死去した。享年49。皮肉なことにそれは勝頼にとっても氏政にとってもそれは彼らの計画が狂うことになる。

 

○「御館の乱」勃発、その発端は?

さて謙信には実子がなく、姉の子である景勝と北条から養子入りした景虎の2人の養子がいた。従来の通説では謙信死後のドサクサに紛れて、景勝が先手を取って春日山城の本丸と遺産を占領したことから、両派が対立関係になりやがて越後を真っ二つに分かれる内乱に発展したと言われている。しかし通説の展開は江戸時代の軍記がベースとなっており、色々説明しきれない部分もある。例えば、謙信没後すぐに春日山城内で2派に分かれて城内で抗争を繰り広げたとされるが、仮に謙信没後の3月から景虎が御館に退去する5月まで2か月近く春日山城内で対決したことになる。私も春日山城を訪れたが、あの春日山城内で2か月も武力衝突をしていた、というのは疑問であった。近年出された見解でこれとは異なる2派に分かれる経緯を紹介する。

 実際には謙信は景勝を後継者とすることで決着しており、謙信没後に景勝はそれに従い、本丸に入ったのである。そして内外に継承を伝える発表をしており、この時点では景虎を含めて家臣団も異議を唱えておらず、そのまま新体制発足となる筈であった。ところがある出来事をきっかけに事態は大きく動き出す。きっかけは新当主景勝と三条城(新潟県三条市)の城主・神余親綱の対立であった。神余が景勝の許可を得ずに領内の地毛人(有力者)から人質を集めていたことを咎めたことに始まった。タイミングの悪いことに会津の領主である蘆名氏が越後侵攻の構えを見せていたのでこれに呼応して謀反を起こそうとしたのではないかと春日山城では疑念を抱いたのである。

 景勝と親綱の対立に対して、当時御館にいた前関東管領・上杉憲政らが仲介に動いたが、景勝はあくまでも強硬一本であった。ここで家臣の勝手な行為に対して甘くすれば、新体制の権威が傷つくと考えたのかもしれない。またこれをきっかけに養父・謙信以来の越後国衆への統制を強化しようとしていたのかもしれない。かくして仲介は失敗に終わり、5月1日に景勝は親綱を謀反人と認定して、「三条手切」という事態に発展した。この結果、仲介した憲政らの面目は丸潰れとなり、彼やまた景勝の強硬な対応に反発した越後国衆の一部が親綱に味方するに至った。つまり、「御館の乱」とは発端は景勝とそれに反発する家臣団との内紛が発端であった。そして反景勝派は自分達が謀反人とされるのを防ぐための「旗頭」を必要とした。それはもう1人の養子である景虎を置いて他に無かった。そして景虎が秘かに春日山城から抜け出て、憲政の居館・御館に入った時、「御館の乱」は上杉を文字通り半分に分かれる内乱へと発展することになった。

 

○上杉憲政と御館

御館は新潟県上越市直江津駅の西側にある居館であり、関東管領であった上杉憲政が北条氏に本拠地・上野国から追われて、謙信(当時長尾景虎)を頼って越後へと落ち延びた時にその屋敷として提供したのが始まりと言われている。「御館」という名から単なる居館と思われがちであるが、同時代の史料では「御城」と呼ばれているように、実際にはそれなりの防御力を備えた城塞であることが判明している。

そしてこの長尾景虎に北条討伐を要請して、関東管領の座と(山内)上杉家の名跡を譲られたことから「上杉謙信」は誕生した。憲政は謙信の力を借りて、関東に復帰できたかに見えたが、上杉の関東経営は北条家の勢力伸長とともに不振となり、再び越後に戻ることになった。そしてその後はしばらく政治の表舞台から遠ざかるが、この「御館の乱」で再び脚光を浴びることになった。それにしても本来、景虎は自らを関東管領の座から凋落させ、あまつさえ実子の竜若丸を殺害した憎き北条の出身である筈である。一方景勝は出身は憲政とも関係が深い上田長尾出身である。それが景勝と対立して、景虎を迎え入れるというのは「皮肉な運命」というべきかあるいはよほど景勝とは受け入れられない仲であったのか・・・いずれにしても行動原理の読めない御人である。後述するが、どうも景勝は「御館の乱」の「元凶」を景虎とはみなしておらず、むしろ憲政こそが真の主敵とみなしていた様子である。

さて御館に入った景虎は実家の北条家の援軍を求める。実兄の氏政は当時佐竹ら反北条派との対陣中であり、同盟国の武田勝頼に対して景虎への援軍を要請する。かくして勝頼は一路北方の越後へ向かって進軍する。氏政も実弟への支援のために越後への進軍を計画するが対陣中という状況であり、遅々として進まなかった。この遅延が後に勝頼と氏政が決裂する発端となるが、この時点では誰も知りようがない。

 

○勝頼に迫られた決断②

勝頼は軍勢を招集して、5月中旬までに武田信豊と春日虎綱を中心とする先遣隊を派遣した。さて当時上杉景勝は国内にあっては景虎方に対して戦術的優位を確立しつつあったが、対外的には窮地にあった。四方を蘆名・北条・織田と敵対勢力に囲まれているのである。いずれも何とか攻勢を防いでいる状況であった。だが最後に上越から一番近い位置にあった南方の武田だけは対処の術が無く、もし勝頼が本格的に介入してくればひとたまりもない状況であった。

 景勝は先遣隊の信豊に対して武田への和睦を打診する使者を送った。従来の通説では景勝が秘かに勝頼側近の跡部・長坂の2人の「奸臣」に対して賄賂いわゆる「黄金の賄賂」)を送り、2人から勝頼に進言して和睦に傾いたというが、実際には武田信豊や信玄以来の宿老春日虎綱らによって検討され、勝頼に申し述べられたのである。なお虎綱は勝頼が海津城に到着した6月上旬に生涯を閉じ、ここに信玄以来の宿老は全て姿を消した。さて秘かに勝頼と景勝の間では条件を巡り、交渉が続けられたが、その一方で勝頼は越後への進軍を止めず、まず北信濃飯山領を接収、さらに信濃西部から実弟・仁科盛信を越後西浜根知城(新潟県糸魚川市)へと進軍させた。そして勝頼は遂に6月29日に越府まで入り、あと日本海まで数キロの地点まで入る。

勝頼が進出した地点(「上越市埋蔵文化センター展示より)勝頼は亡父信玄が果たせなかった日本海への進出を目前にしていた。そしてここで勝頼は当事者である2人に対して和睦の仲介を行った。

ここで御館の乱をめぐる武田勝頼の対応については謎とされている。上杉景虎を支援するために出陣する筈が、景勝からの和睦申し入れに態度を翻したことでは一体なぜなのか。武田の家臣たちは武田家滅亡の理由をこの「御館の乱」への対応で北条家と対立したことをあげた。無論勝頼は既にこの世の人でなく、その考えを書き記した史料など(敗滅したのだから当然)無い。そのため江戸時代に入って『甲陽軍鑑』その他軍記物で色々憶測が飛び交うことになったのが先の「黄金の賄賂」である。

それでは武田勝頼と上杉景勝の間で8月19日に起請文を交わしている。そこでは

・武田と上杉は攻守同盟を結ぶ

・ただしこの同盟の対象には景虎と北条氏は除外する。景勝と景虎のどちらにも武田は与しない。その代り勝頼は、景勝と交戦状態にある北条に対しても、信濃へは入らせない。

・最後に勝頼と景勝の間で縁談を履行する

と定められている。すなわち勝頼が目指したのは上杉家の内紛を早期収拾させ、それによって再び対織田への同盟関係を構築させることにあった。その一方で北条家と景虎への配慮を示すことで何とか落着点を探そうとしていた。折しも翌日は景勝・景虎の双方が、武田氏の勧告する和睦を受諾したことで勝頼の努力は実ったかに見えた。

 

○和平の破綻と景虎破滅の代償

だがこのすぐあと勝頼に凶報がもたらされる。恐れていた西方で家康が駿河田中城への攻撃を開始したのである。勝頼が一番恐れていた事態である。(そもそも勝頼にとってこの「御館の乱」とは手伝い戦であり、織田・徳川との戦争中であり、いつまでも越後に滞陣できない)更にこの和睦はあくまでも「停戦」であり、その後の双方の処遇の条件が定まっていなかった。勝頼は何としてでも上杉の内戦を終結させ、双方納得のいく条件で終戦に導こうとしていた。既に当初の景勝と反景勝派の内紛から始まった内乱は今では上杉家家督の座をめぐる後継者戦争となっており、双方譲れない状態であった。

如何なる広大な帝国であろうと「玉座」に座れるのは1人だけなのである。

時間切れとなった勝頼は越後から撤収せざるを得なくなった。だがこのタイミングもまた最悪であった。丁度この時期北条は景勝の実家である上田長尾氏の本拠地である坂戸城を攻撃を懸けた時であり、氏政にとってみれば「勝頼は勝手に戦線離脱した」と受け止めたのである。

 

○「御館の乱」の終結

北条軍は結局この坂戸城を抜くことができずに越後の冬の象徴である冬将が訪れたことで撤収に追い込まれた。この間に景勝は景虎方を追い詰めつつあり、遂に景虎方の本営である「御館」を「巣城」(本丸だけの裸城)に追い込みつつあった。既に周囲の景虎方の城を制圧したことで補給ルートを遮断したことで、御館では逃亡者が続出していた。最早これまでと観念した景虎は兄の氏政を頼るべく脱出を計画する。同じころ、憲政も降伏の斡旋の申し出をした。景勝も憲政の申し出を了承して、景虎の嫡子である道満丸(母は景勝の姉妹であり、実の甥にあたる)を人質に出す条件で受け入れられた。そして御館を憲政と道満丸が出た所で景勝方の侍たちに殺害されてしまう。

こうして上杉憲政は最後は本拠地上野国から遠く離れた越後の地で悲惨な最期を遂げた。遺骸は打ち捨てられ、数日後に埋葬されるという状態であった。憲政殺害を実行した桐沢具繁は

「突如出てきたので敵と誤認して殺害した。憲政であるとは知らなかった」

誤射・・・じゃない誤殺であると主張して、主君の景勝も特に咎めることが無く、それどころか乱終結後に合戦では目立った手柄を立てていないのに破格の恩賞を与えられた事からも「真相」は確定的に明らかであった。景勝は最初から憲政こそ「元凶」とみなしていて、最初から助命する気などなかったのである。景虎は御館を脱出して南方の鮫ヶ尾城へと脱出した。既に東は抑えられており、関東への脱出は不可能であり、南の信濃へと目指していた。武田はあくまでも「中立」であり、景虎と対立していたわけではない。縁戚であり勝頼を頼り、実家の北条へと帰還することをめざしていたのであろう(平山優『武田氏滅亡』)もしここで勝頼が景虎を保護していればあるいは北条との関係も変わっていたかもしれないが、無論景勝はそのような事態を見逃すわけにはいかない。既に鮫ヶ尾城の将兵の一部も景勝に内通しており、遂に追い詰められた景虎は自刃して果てた。享年26。この後景勝はようやく景虎派を一つ一つつぶして天正8年にはようやく御館の乱は終結したが、その代償は大きかった。上杉家はこの内乱で大きなダメージを受け、織田との戦争は防戦一方となる。そしてこれによって武田と北条の関係は一気に冷え込むことになるのである。

 

○勝頼は「山吹色の菓子」に目が眩んだのか

最後にこの時膾炙される「黄金の賄賂」について述べておきたい。武田氏滅亡後、武田遺臣の多くは景勝と同盟を結び、北条との敵対になったことがそれが武田の崩壊につながったと認識していた。そしてこの時の武田家首脳部の考えをしらない(この時意思決定に関わった重臣の多くは敗滅して語り遺すことはなかった)家臣団には不自然な動きと受け取られ、その「答え」として出されたのが「黄金の賄賂」であった。とはいえ実態は違う。実を言うと戦国時代の慣例では同盟や和睦を申し入れた場合が「申し入れた側」が相手に対して金銭の贈答を行っていた。江戸時代の軍記では「1万両」とか「5千両」といった莫大な金額が出されているが、実際の金額はそれほど多くは無く、当時の慣例に従ったまでと言える。ただ「相場」より多い額が支払われたことと重臣一同に広い範囲で贈られたことが要らぬ「疑惑」をかきたてた側面がある。(景勝としてはここで武田を味方にしないと後がないのだから当然であるとは言える)また武田は永年上杉と対立していた経緯があり、同盟は家中にとっても唐突で、戸惑いや反感があった面も否めない。いずれにせよ勝頼として単なる「目先の利益」で動いたわけではないことに強調しておきた。

「後世の歴史家」はいずれもこのことから勝頼の対応を非難するが、これも結果論の域を出ない。仮に景虎を支援した場合でも景勝との戦えば損害を免れないし、そして景虎政権が成立すれば北条家の力が肥大する。「国家に真の友人はいない」との格言がある通り、たとえ現在北条と同盟を結んでいたとしてもそれがいつまでも続く保証などない。仮になにかのきっかけで敵対となれば(事実そうなる)、武田は織田・徳川・北条と敵対勢力に完全包囲されるリスクもあった。(もしそうなれば今度は「景勝を支援すべきであった」という非難を受けるだけである)勝頼の視点に立ってみれば、「両者の和睦を仲介する」という点で「落としどころ」をとり、パワー・バランスを取ろうとしていたのに過ぎないのである。

 

複雑な利害の入り組んだ外交の世界においては100%の「正解」など存在しないのである。当事者はリスクとメリットを天秤にかけ、自分達にとって「一番いい落としどころ」を探るのが精いっぱいなのである。

 

○御館公園にかつての面影は・・・

今回の訪問は先月ご紹介した「上越市再訪記・後編」の一部でご紹介します。上越市在住の与力さんから上越市ご案内のお願いに快諾していただいた時にリクエストとしてこの「御館公園」をお願いしたのでした。丁度本企画の為でもありましたが、これが与力さんに多大なるご迷惑をかけてしまい、振り返ってみればかなり後悔しています。いやぁ「御館」の「現状」は知っていましたが、ここまで「何もない」とは・・・

その際の一波乱は先の「再訪記に載せてますのでここでは実際の「御館公園」の訪問オンリーでご紹介します。

ここにある「御館」の石碑と上杉憲政の顕彰碑(憲政の地元・群馬県から贈られた)、そして案内解説板が

かつてここに御館があった名残の全部である。

周囲は見事に公園と住宅街となっていました。それにしても見事に何もない。かつての越後の歴史を揺るがした舞台の筈なのに寂しい限りです。せめてここを舞台にした「まともな大河ドラマ」があれば話も変わっていたかもしれないのですが、実際に舞台にした大河ドラマは・・・というとそれこそ与力さんは凄まじい怒りの感情を秘めていていることからもお察しの通りです。私は地元民でありませんのですが、それでも怒りは共感できるつもりです。あの作品の四郎(武田勝頼)の描写は「憤怒」の一言でありました。

「山吹色の菓子」にまるで悪代官のテンプレのような四郎、妹からもボロクソにけなされる四郎・・・・

装鉄城「わしはこんな四郎を見とうは無かった!!」

いや本当、主人公主従の「命の恩人」に対してこの扱いは無いんじゃないの。これが景虎や北条主役のドラマなら話は別ですが。それにしても某ドラマなんてもうほとんど記憶にないのですが、何故かあの「山吹色の菓子」のシーンだけは今でも鮮明に覚えているのですね。

四郎と称する何者か「ヒグチ屋、お主も悪よのう」

愛の人「いえいえ、勝頼様こそ・・・」

なんて典型的な悪代官のシーンにしか見えなかったせいもあるからでしょうか。少なくとも戦国武将同士の会話シーンではないし、しかも散々「愛だの義だの」と言っていた主人公でこれをやろうという神経が解らない。・・・失礼なんか悪口になってしまいました。ただ某ドラマの「功績」としてこの反動で7年後の大河ドラマで究極にして至高の四郎にめぐり合える歓喜に遭遇できたことです。

解説版のかつての館跡

かつてはここ「御館」は二重の堀がめぐらさた歴然とした「城塞」でした。そうでなければとても「御館の乱」は成立しなかったでしょう。

しかし現在の公園はかつての本丸の本の中心部のみ四角形で切り取ったような形でしかありません。

それでも2人で「明石のタコ」さんが実践されていたように「どこかにせめて地形に残っていないか」と探してみたのですが、如何せん公園は本丸のごく一部のみ。それ以外はご覧の通りアスファルト道路と住宅街なので断念せざるを得ませんでした。私も未熟であると自嘲するしかありません。

 

それでもこうして歴史に残る戦乱の舞台を巡り合え、思いを馳せることができただけでも良いものであり、与力さんには改めて感謝申し上げます。

≪参考文献≫

平山優『武田氏滅亡』 角川選書 2017

丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』 平凡社 2017

 

 

○アクセス

「御館に狼煙が一本・・・」