武田勝頼は郡内の岩殿城を目指す。険しい地勢に守られた堅城にて持久戦に持ち込み、そこで最後の一戦に武田の生き残りを全力をかける。それが勝頼の目指した道であった。しかし小山田信茂の迎えを待つ一行に非情な運命であった。ここに勝頼の命運は絶たれる・・・
○まだ希望を棄てていない勝頼
新府城を出る時にはまだ勝頼には針の穴をとおすような極少の可能性であるが、まだ儚い希望があった。この時、勝頼は従兄弟の信豊に信濃における全権を委譲して、まだ武田への忠誠を保つ東信、上野国の国衆らを糾合して、織田本隊が甲斐に侵入すればその背後をつくように依頼していた。信豊は勝頼と育ちを一緒にし「竹馬の友」と言われるほど一門の中で勝頼の信頼厚かった。勝頼は彼に希望を託したのである。この方策は後に天正壬午の乱で家康が北条の大軍相手に取った戦略と軌を一にしており、充分に成算があった。信豊は気持ちはありがたいが、国衆たちが動かなければ全てが徒労に終わる。だからこそどこまでも勝頼と行動を共にしたい、と固辞したが、勝頼が重ねて懇請して新府城から立ち去らせた。後のことになるが、織田軍は寒冷地である甲信での飢えと寒さで略奪や逃亡者、凍死者が続出する状況であった。もし持久戦に至れば、あるいはまだ生き残りの可能性があるかに見えた。
だがそれは希望にすぎなかった。
信豊は小諸城にて城代・曽禰浄喜の謀反に遭い、3月16日に最期を遂げる。彼の子らも命を落とし、ここに信玄・勝頼と2代にわたって武田本家を支えた典厩武田家は滅亡した。そして上野の国衆である真田・小幡・内藤らもこの時秘かに北条との接触を開始していた。
3月3日
新府城を出た後、勝頼一行らは甲府に入り、一条信龍屋敷にて休息を取る。だが甲府も既に混乱の極みにあり、皆家を焼き払い、山中や穴山領に逃げ込もうとしていた。一路郡内をめざし、この日夕方には柏尾大善寺に到着。既にこの時、落伍者や逃亡者が続出し、新府城を出た時よりも人数は更に減っていた。
この頃、真田昌幸は新府から岩櫃城へと向かったが、しばしば野伏などに襲撃され、帰るまで幾多の苦難を経験していた。
この日、深志城(松本市)も落城して、信濃の武田勢は事実上崩壊した。
3月4日
勝頼は、夜明けと共に柏尾大善寺を後にし、駒飼宿までたどり着いた。勝頼はここで小山田信茂の迎えを待つことにした。
勝頼は東へ落ち延びる途中で、まるで自らの運命を予感していたかのように、慈眼寺の僧・尊長に遺品を高野山に送り、菩提を弔ってもらおうと考え、遺品と金子を託した。この時に残ったのが、勝頼・北条夫人・信勝らの家族が描かれた画像など多くの遺品が後世に遺された。
この日、上杉軍はようやく動き出そうとしていた。
3月5日
この日、織田信長は安土を出陣。
上杉援軍は信濃牟礼まで進軍したが、ここで行動を停止する。
3月6日
この日甲府が織田軍に陥落
3月7日
武田攻めの総大将・織田信忠は甲府に入り、勝頼の行方を探らせると共に、武田一族や家臣らの徹底的な残党狩りを命じて、それが開始された。
この日、上杉景勝は北信濃の武田家臣に書状を送り、勝頼の身柄を保護する意向を表明した。もっともこれは既に不可能であったが・・・
3月8日
徳川軍が甲斐に侵攻を開始。信長は当初は勝頼がどこかで一戦することを危惧して、急速な進軍に懸念を顕していたが、この頃になると最早勝負はついたとみたのか、楽観視するようになっていた。
3月9日
この日家康も甲斐に入国。信長は美濃兼山城(鬼武蔵こと森長可の本拠地)に到着してここで一泊。
3月10日
駒飼に滞在すること7日間、勝頼は信茂の迎えを待っていたがいつまでたってもその気配が無い。家臣が小山田を迎えに行かせたところ、、笹子峠は封鎖されて、都留郡に入ることを拒んだ。小山田信茂の離反が明らかになったことは一行にはとどめの一撃となる。勝頼を見限った者たちが、駒飼の各所に放火して立ち退きしてしまう。勝頼の下へ残るのはわずかに43人ほどの武士だけであった。今まで付き従っていた家臣らですら、勝頼の命をつけねらうようになり、あてもなく彷徨する勝頼一行は悲惨としか表現しようがなかった。敵方の太田牛一ですら『信長公記』にその様を憐んでいる。
勝頼の命運は決した。最期の時が近づく・・・

○勝頼が入城を果たせなかった岩殿城
岩殿城は、都留郡の北部、JR大月駅の北東にある標高637メートルの岩殿山上にあり、笹子川と桂川、その川によって浸食された断崖絶壁に守られた、東側は葛野川、西側は浅利川に守れた天然の要害です。
『甲陽軍鑑』では上野国岩櫃城、駿河国久能城とならぶ「関東三名城」と絶賛しているほどです。その歴史については不明な所が多く、従来はここ郡内の領主・小山田氏が築いたとされてきました。従来はここ岩殿城を小山田の居城(詰めの城)とされています。しかし、近年になって研究者から①居館である谷村館から距離が離れすぎている、甲斐・相模の国境の要所であり、小山田氏より武田が重視すべき城であったことから武田による領国防衛の拠点として築城した、という見解が出されています。
中央本線大月駅駅舎を出るとすぐそばに山上そのもが岩だらけとなった山、あれこそが岩殿城のある岩殿山です。
概ねあそこまでを目指して歩いていくと
ほぼ迷うことなく登り口までたどり着けます。それにしてもこれ確かに岩櫃城とそっくりの岩山ですね。
岩櫃より厄介なのは岩櫃城は岩山の中腹部であり、山頂までは登る必要は無いが、岩殿城はあの岩山の山頂を目指していかねばならないことです。
ここ入口部分は公園となっており、ふれあいの館という案内施設もあります。岩殿城や小山田氏に関する展示や解説書もあるのでぜひ立ち寄ってみましょう。
さてそれでは登っていくことにします。
揚城戸跡
天然の巨石がそのまま関門として利用していました。
番所跡
岩殿城は巨大な岩塊そのものが城の防御機能そのものなので山頂部には現在では何も残っていません。
馬屋跡
岩殿山山頂部、すわなち本丸跡です。
ここからだと富士山も見れるのですが、この日は曇っており、見れず残念。
馬場跡
城内でもっとも広い空間であります。
主郭部分の東側へ行ってみましょう。そこには数少ない城の遺構である堀切が確認されます。
亀ヶ池
池は2つあり、飲料水と馬洗池という用途分けがなされたといわれています。現在では整備されて往時の旧観を失っていますが、かつては直径2メートル、そして現在でも1日1200リットルの水が湧きだしてくることが確認されています。この城がかなり長期持久戦にも耐えうる要害であったのです。
それにしてもこの岩盤上を歩くのは本当に怖い。勇気が要ります。
岩殿城は技巧的な部分は少なく、まさに天然の地形そのものを武器にした山城と言えましょう。
これは確かにここで籠城できれば、長期的な持久も可能な防御力であり、勝頼が最後に頼みとしたのも納得です。残念ながら勝頼ははいることはできませんでしたが・・・
小山田信茂について一般的には「土壇場で主君を見捨てた裏切り者」とみなされていますが、地元では郷土を戦火から守った偉人として語り伝えられています。江戸時代的な価値観で人物を語るべきでないのは正論であり、何よりも彼等の行動を「裏切り」と評価するのは適当ではありません。国衆はそれぞれ自分の領土があり、そこを守るのが第一義となっていました。彼らが戦国大名に従っていたのもそれが領地の保全のために保護してもらう前提があり、それが崩れれば従う道理はない。
勝頼好きな私ですが、不思議と小山田信茂についてはそれほど悪感情を持っていません。その気になれば、それこそ勝頼は出迎えるふりをして討ち取り、その首を手土産に差し出すこともできた筈ですが、それをせず門戸を閉じただけなのはそこまで非情になれなかった証と考えています。但しアナ雪は例外です。
≪参考文献≫
平山優『武田氏滅亡』 角川選書 2017
丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』 平凡社 2017
山下孝司・平山優編『甲信越の名城を歩く 山梨編』吉川弘文館 2016
○アクセス
JR中央本線大月駅から徒歩20分で登り口 そこから徒歩25分で本丸
「岩殿城の狼煙が一本・・・」