天正9年風雲急を告げる情勢の中で武田勝頼は新たな城を築く。その名は「新府城」。武田流築城術の集大成となる城は勝頼に新たな「未来」を約束するものか、それとも「亡国」へと誘うのか。いずれにせよ勝頼はこの城に「夢」を託していた。しかし破局はすぐそこまで迫ってきたのであったのであった・・・

 

○新府の立地

天正9年武田勝頼は韮崎の地に新たな城を築いた。これは緊迫化する情勢に対応させるためのものである。既に武田は東の北条、南の徳川、そして西方の大国・織田による攻勢の中で本格的な本土防衛体制を築く必要性に迫られていた。新府築城を示す唯一の史料は、天正9年1月22日付けで真田昌幸が普請人足の動員を告げた書状である。このような書状は武田領国中に発給されたものとみられ、普請人足が徴発され、築城が開始される。
 新府城が築かれたのは要害の地であった。八ヶ岳からのびる七里岩の高低差130メートルの断崖上を巧みに利用されて築かれていた。西側は垂直の断崖となっているので侵入不可能、東側には塩川と日ノ出城、南側は
(大河ドラマ『真田丸』第1話(「船出」より)河岸段丘となっており、丸馬出と三日月堀が築かれていた。唯一北方のみは防御上の地形的効果に薄かったがそれをカバーするかのように能見城といった支城群が建設されていた。
また政治上の必要性が大きかった。韮崎は甲斐国では西北に偏っているが、信濃・上野・駿河といった領国全体から見ればまさに水陸交通の結節点に位置していた。北条と並ぶ東国最大の大大名へと成長した武田氏の領国の中枢に位置するこの城はその名の通り「新府」新たな首都であったのである。なおかつて真田昌幸が新府城の普請奉行を務めたとされたが、現在では否定されている。
 2月に始まった築城工事は、同年9月には一応の完成をみた。しかし勝頼は各方面に多忙を極めていた。10月には北条氏の伊豆戸倉城主・笠原政晴が武田氏に寝返ったためにその対応で伊豆へ出馬したためである。笠原は北条氏の宿老・松田憲秀の子である。それほどの重臣が武田側に寝返るほど、当時の武田は北条に対して軍事的優勢であった。
12月24日、年も迫っている中で勝頼は新府移転を断行した。祖父・信虎が永正16年(1519)12月に居館を川田から甲府へ移転して以来、信虎・信玄・勝頼の3代62年にわたって整備拡張されていた躑躅ヶ崎館と府中からの遷都事業であった。その模様を『理慶尼記』では正室の北条夫人は金銀や珠玉を鏤めた輿車に乗り、従う人数は数知れず、壮麗な行列であったと記す。その一方で同書ではその行列に呼び止めようとしたり、遮ろうとしたりする人が後を絶たなかったと記している・・・
 
○未完成であった新府城
この時、新府城は実は完成していなかった。『甲陽軍鑑』には「半造作」という表現であったが、まさしくその通りで、二の丸や三の丸には建物が確認されておらず、土塁や虎口も中途であった。完成していたのは、本丸など政務や生活の場となる御殿などの中枢部のみであり、城を守るための門や櫓、塀などの防御施設は不十分な状態であったのである。それ以上に深刻な問題は、城下町や家臣団屋敷もほとんんどされていなかったことである。新府城周辺の屋敷跡と思しき遺構は勝頼に近い家臣団のものばかりで、穴山や一条といった一門の屋敷すら無いという状況であった。戦国大名の本拠地移転は多大なる困難がともなる。かつて祖父の信虎は甲府に本拠地移転した時も徹底した武力で反対の声を抑え込み、実現させた。しかし勝頼のこの移転は皮肉なことに逆に武田と領民の間に溝を作ってしまったのである。
そして勝頼とその家族が新年を迎えられたのはわずか一回のみとなったのである。そして「それ」は突然訪れた。

 

○破局の到来

天正10年(1582)正月、木曽郡の領主で勝頼と縁戚関係にあった木曽義昌が織田方に転じた。勝頼は元々長篠戦の後から木曽義昌の動向に疑念を抱いており、その家老千村・山村両氏に対して、直接工作を行って木曽家中を親武田で誘導するよう命じていた。しかし高天神城の落城によって、武田氏への信頼は失墜しており、義昌は自家存続のために寝返りを決断したのである。

1月27日千村一族の千村左京進が新府に義昌謀反をもたらした。ここまでは勝頼としても充分「想定内」であり、直ちに木曽討伐の為に出陣する。一方信長は好機到来とばかりに信濃侵攻を開始した。長男の信忠を主将とする織田軍は木曽・伊那方面に侵入して、あれほど勝頼が構築していた防衛線はまるでドミノ倒しのように自壊していく。

2月14日浅間山噴火、最悪のタイミングであった。
当時の人々にとって、甲斐・信濃をはじめとする東国で異変が起こる時には、浅間山が噴火すると信じられてきた。その模様は遠く京ですら東方の空が赤く染まる様子が見えたという。信長は朝廷に働きかけて武田攻めを「朝敵武田を追討」という形を取っており、その祈祷が天皇や寺社からもなされていた。その織田軍侵攻に合わせるかのように噴火が発生したのである。
高天神城見殺しによる軍事権威の失墜
信長による世論工作で武田征伐は単なる戦国大名間の「私戦」ではなく、「朝敵」と規定され
浅間山噴火によって武田の家臣団の士気は挫かれた
天ハ勝頼ヲ見離シタ
まるでそう思わせるかのように。そしてこれ以降最早武田軍はまともな抵抗することもできずに瓦解していった。
 
2月16日鳥居峠合戦
既に伊那方面が崩壊しつつあるなかで、勝頼は塩尻まで兵を進め、木曽攻撃を命じた。しかし関門となる鳥居峠は天然の要害であり、惨敗する。一方、駿河・遠江方面でも徳川軍が攻勢を開始した。遠江に唯一武田方で残っていた小山城も自落する。
 
2月17日大島城自落
かつて勝頼は大島城を伊那防御の要衝として、この日に備えて大規模改修を施していた。叔父信廉や高遠衆小原継忠を援軍として派遣もしていた。しかし城下の地毛人(有力町人)たちは織田方に寝返り、城に火を放つ。信廉は逃走してしまう。城代であった日向虎頭は徹底抗戦を主張するが、家臣が強引に馬に乗せて、落ち延びさせてしまった。後に日向は勝頼を追って自害する。
地毛人が離反した原因として、勝頼が税や労役の負担を増やし、それが民衆の不満を溜め込んでいた、と『信長公記』は記す。長篠戦後に相次ぐ戦役と新府城築城で負担が増しているのは事実であり、武田家立て直しのための勝頼の政策が逆に不満を溜め込んでしまい、一気に噴出してしまった。その意味では勝頼の「失政」と捉えられているが、信長は「民衆とは葦の草のようなもので強い風に靡くもの」と受け止めていた。時勢の中で一度大名が衰勢に入るのが明らかになると民衆は来寇軍を「解放軍」として歓迎していた。それは彼らにとっては自分達の身を守るために当然の手段であった。後の世になるが、幕末維新の時の戊辰戦争における会津や西南戦争における薩摩でも同様の光景が生じている。
 
2月19日 北条夫人が願文を奉納して勝頼の戦勝を祈願する
この日、勝頼の正室北条夫人は武田氏の氏神である武田八幡宮に願文を奉納し、夫の戦勝を祈願した。
「敬って祈願申し上げます。 無帰命頂礼、八幡大菩薩様。この神社の神様は、国主の武田信義公が武田八幡神としてお招きになって以来、代々武田家の守護神でいらっしゃいました。ところが今、思いがけない逆臣が現れ、甲斐国を困難に陥れております

よって国主の勝頼公は運を天に任せ、命を投げうつ覚悟で敵陣に向かいました。そのような切羽詰まった情勢にも関わらず、家臣の中には正義の道理をわきまえない者がおり、その心はまちまちで、一致してこの難局に当たろうとしておりません。

特に木曾義昌は、僅かばかりの利を得るため、神の御心に背いて敵に内通し、哀れにも父母に叛いてまで謀叛の兵を挙げました。これは自ら人質の母や子を見捨て、見殺しにしたのと同じであります。また武田家に恩顧を受けている譜代の家臣までが、逆臣と心を合わせて勝頼公に盾突き、国を亡ぼそうとしております。そもそも勝頼公にどうして悪心などがありましょう。あるのは慟哭ばかりで無念の焔(ほむら)は、天に昇るほどです。このような逆臣が現れるから万民が苦しみ悩むことになり、仏法が無視されるのです。私も夫と同じ気持ちで悲しみ、涙を止めることができません。もし神慮のほどが誠であるならば、謀反を起こし五逆十悪の過ちを犯した者に神のご加護はない筈です。

そうであるからこそ、私は神様を信じるのでございます。悲しいことですが、今や武田氏は危険な所にあります。もし神慮というものが誠にあるならば、現在のような苦境の時こそ霊神の力を以て、勝頼公を勝たせて下さい。すぐに仇を四方に退けて下さい。兵乱が収まり長生きができ、子々孫々まで武田家が繁栄するようお願い申し上げます。この大願成就を叶えて下さいましたら、勝頼公ともども八幡神社の社殿、御垣、廻廊を立て直して寄進申し上げます。

天正10年2月19日 源勝頼(武田勝頼)室」

北条夫人は実家の北条家と勝頼が敵対した時も離縁もされず留まっていた。その夫婦仲は睦まじいものであった。そして彼女が必死に戦勝を祈願する中で実兄の北条氏政は情報収集に追われていた。氏政はあれほど優勢を誇っていた武田がにわかに崩壊の瀬戸際にあるとは信じられなかったのである。確実な情報を求めていたのは勝頼が北条と織田との情報遮断に成功していた証である。

 

2月20日 上杉に援軍を要請

勝頼は義弟の景勝に援軍の派遣を要請した。景勝は何とか援軍を整えようとするが、上杉は相次ぐ織田方の攻勢や新発田重家の反乱で今軍勢を向かわせるのは至難の状況にあった。出陣を命じられた家臣たちにとっては「火中の栗を拾いにいくもの」と動きは鈍く、結局援軍の派遣は間に合わなかった。この日、氏政は遂に武田への攻勢を下知する。

 

2月25日 穴山梅雪離反

江尻城代であった一門衆の筆頭、穴山梅雪が甲府においていた人質を奪還して、謀反の動きを明らかにする。既に梅雪はかなり早い段階で信長と内通しており、既に予定通りの行動であった。駿河方面の抵抗は田中城を除いて、最早崩壊したも同然で、武田の致命傷となる。

 

2月28日 勝頼、新府城帰還

最早木曽攻めどころか信濃防戦どころではなかった。駿河は最早敵の手に落ちたも同然であり、本国甲斐すらも危険であったのである。撤退するなかで武田軍の将兵の動揺は激しく、撤退開始時に8千人ほどいた軍勢が新府城に帰還した時には千人足らずに減少していた。勝頼にとって最後の頼みの綱は伊那郡最後の軍事拠点・高遠城で実弟・仁科信盛らが織田勢をくいとめ、その間に態勢を立て直すことであった。

 

○「武田家最後の11日間」の開始

3月1日

上野国衆の大戸浦民部右衛門尉に対して、鉄砲を集めた功を賞して知行の安堵と借銭の免除の朱印状を発行。これが現存する最後の武田氏最後の朱印状となる。この日、新府城下で木曽義昌の人質3人が処刑された。

この日、駿河で唯一抵抗を続けてた田中城が開城して、東海方面の武田軍は消滅した。

 

3月2日 高遠城玉砕

織田信忠は高遠城を包囲して、明け方に戦闘を開始した。織田軍と武田軍は城外で数刻にわたって激戦を展開した。大軍を擁する織田軍の攻撃に武田軍は次第に追い詰められつつあった。城内では女性ですら武器を取って戦ったという。落城が迫ったことを感じた信盛は、小山田兄弟とともに別れの盃をかわすと自害、残った将兵玉砕して陥落した。高遠城はかつて勝頼が最初に城主となった城であり、いわば「本国」に等しい存在であった。高遠衆や諏訪衆も加わっており、唯一勝頼に殉じたと言えるだろう。

その日深夜には新府城に落城の報は届いた。勝頼以下、武田方の首脳部の衝撃は深刻である。高遠城は要害であり、物資も充分備えていたので、20~30日は籠城して、織田軍の侵攻を食い止めると予想していた。その間に新府城の防御態勢を整えようとしていたのに1日で落城してしまった。

新府城での籠城は不可能であった。

 

3月3日 勝頼、新府城を出る

日も変わる深夜に軍議が開かれ、今後の方針が協議された。その模様は史料によって異なる

①嫡男信勝が父や側近たちの「失政」を批判して、新府城で玉砕すべきと主張した。真田昌幸が上野国岩櫃城に籠城する様献策した。一方で小山田信茂が都留郡岩殿城に落ち延びるよう進言する。勝頼の側近であった長坂釣閑斎が真田は3代の外様に過ぎないので信用できないと「讒言」してこれによって岩殿城への退避が決定した。(『甲陽軍鑑』)

②勝頼は新府で敵を迎え撃ち、ここで最期を遂げる覚悟であった。岩殿城への退避を奨める小山田信茂の懸命の説得に折れた。小山田が説得の材料にしたのがまだ若い北条夫人と嫡男・信勝であった。後に勝頼は「郡内まで退避すれば相模も近い。夫人をなんとか小田原に返したかった」と告げており、岩殿城に移る理由は北条夫人を氏政のもとへ送り返し、後顧の憂いなく戦うためであった。(『理慶尼記』)

 

①は有名なものでドラマや小説などでも概ね踏襲されている。もっとも江戸時代にできた『甲陽軍鑑』の性格からして、俄かに信じがたい。より古く成立した『理慶尼記』や『甲乱記』には真田昌幸の岩櫃籠城の進言自体が存在しない。後者の方がより真実性があると思われるが如何であろうか。

高遠城を落城させた織田信忠は遂に勝頼の故郷である諏訪の地に進軍した。上諏訪に着陣した信忠は方々を放火して、信玄・勝頼親子の崇敬あつかった諏訪大社も焼失することにあった。この伽藍は天正6年~7年に勝頼が壮麗な造営が行われたばかりであった。
新府城では城を放棄する動きが早朝から開始された。軍議から6時間程であったと思われる。勝頼は退避するために物資や女性などの非戦闘員の移動の為に人夫と馬を出すように求めていたが、既に甲斐の領民さえも山野に隠れてしまっている状態であった。馬も人夫も姿を見せず、夫人の輿を担ぐ輿かけすら逃げうせる状態であり、馬1頭をようやく探し出して、これに草鞍を敷いて北条夫人を乗せるという有様であった。勝頼は退避の準備を進めると、未完成の新府城に火を放った。城内に取り残された(武田を見限った国衆の)人質たちは、城の一角に閉じ込められたまま焼き殺された。
勝頼に付き従う人数は千人たらずであり、しかも女性などの非戦闘員が将兵より多い状態であった。道筋には様々な道具が散乱して、夫や親とはぐれた女性や子供が泣き叫ぶ有様であったという。裸足の状態であり、険しい道程で足からは血は流れ、脱落するものが続出するという地獄絵図が現出した。
思い起こせば・・・・この新府城に入城した時には絢爛豪華な大行列で入ったのが昨年12月24日のこと。僅か60日余り前のことである。
これほど残酷なまでに武田の凋落を見せつける光景は無かったであろう。
天正10年3月3日勝頼は築きあげた新府城は炎とともに消え、そして二度と戻らぬ逃避行の途につく。
(大河ドラマ「真田丸」第1話「船出」より)
 
○新府城に翻る『真田丸』の旗
新府城、8年前に訪れた時は丁度8月の真夏の真っ盛りで猛暑に悩まされて、じつは十分に見学できなかったのが大層無念な話でした。
そのため今回は満を持して3月中ごろの訪問を決行することにしました。いつもなら数分単位での見学となりますが、今日のこの日は
「勝頼を追憶するために1日を費やすのだ!!」
という決意で入ることにしました。
JR中央本線で韮崎から小淵沢方面へ1駅。新府駅があの城への最寄口となります。
新府駅は駅舎もない簡素な無人駅。周囲は点在する民家と田園風景が広がります。隣の駅名は穴山という名前から察せられる通り、穴山梅雪(略してアナ雪)の本領穴山郷があった所である。新府城は穴山郷に隣接する地域であり、梅雪が所領進上して築城が始まったと言われています。新府への築城を進言したのは梅雪であると『甲陽軍鑑』に記されており(どこまで事実かは不明です)、まぁ梅雪の協力ないし黙認があったのでしょう。ところで梅雪は武田家滅亡後に
アナ雪「勝頼は当主であった10年間にいつも奸臣ども重用して、これを諌める親族(多分自分の事を指すと思われる)の意見を聞こうとしなかった。新府に城を築いたから皆勝頼を見離したのである。これも天命であろう」(直訳)
どの口が言うとるんじゃ!とツッコミどころ満載なのがアナ雪クオリティでしょう。
駅を出た所にあるあの高台こそが新府城です。幸い険阻な山梨の城は険しい山城が多いですが、新府城は台地でそれほど起伏も激しくありません。10分もすれば入口まで到着できます。
東側枡形の虎口
国道17号線沿いに新府城入口です。
このまま階段を上がれば、すぐに本丸ですが、それでは興が無い。ここは脇の坂道を登って行くようにしましょう。ただしこの道、昭和年間に開削されたもので部分的に遺構破壊になってしまっています。
南側にあるのが大手枡形虎口です。
大手口の枡形虎口
きれいに整備され土塁がきれいに草一本無く見学できる状態です。
丸馬出
途中で地面に動物のされこうべを発見。まだ真っ白い所を見るとまだ新しい・・・?
発掘調査が進められて、きちんと保存区画とロープで区画されているのは有り難いことです。
そして丸馬出の外にあるのはもう武田の城の象徴ともいべき
三日月堀です。
三の丸跡
本丸の次に大きな台地の形をした曲輪です。中央部は土塁で区切られ、東と西の区画に分かれていました。建物は確認されておらず、まだ未完成だった箇所でした。
二の丸跡
本丸の次に高い位置にあり、土塁がめぐり、3か所に虎口があります。こちらも建物跡は確認されていませんが、釘やかわらけ、陶磁器などの道具が確認されています。
そして本丸跡到着
本丸は東西約90メートル、南北約150メートルの広さで、また本丸内部も実は高さが異なります。
本丸北側は窪地となっており、周囲に1~1.5メートルの土塁がめぐっています。
既にお気づきでしょうが、既に筆者は新府城を訪問する時もまたこのシリーズ記事を作成する時も
大河ドラマ『真田丸』第1話~第2話の光景が勝手に脳内で再生されてしまっている状態です。
あれは三谷さんの脚本と平岳大さんの熱演も相まってもう私の中で勝頼の光景としてはこれ以外にありえないという状態になっています。
そして中心部に翻るは「真田丸」の旗
あれから2年。それでも新府城と勝頼を描写した大河ドラマとして神作品に等しい存在です。
現地縄張り図
北東部にある藤武神社
廃城後に江戸時代に設けられた神社です。
勝頼公を祀る祠
その北側には八ヶ岳の光景が広がります。
まるで蟻地獄のような巨大な井戸跡
土塁で周囲を囲んだ直径25メートルの巨大な井戸で、山の斜面から湧き出る水や雨水を溜める井戸だったと考えられています。
木橋橋台
空堀に向かい突出する部分にあり、木橋をかけるための施設と考えられています。
西側にある七里岩
ここからだと西側は本当に断崖絶壁であり、天然の要害であると判ります。
乾門枡形虎口
搦め手門とも呼ばれていました。大手と同様内側に高い土塁、外側に低い土塁となっています。
門の礎石跡
新府城北側の外縁
現在は普通の平地となっていますが、かつてはここは湿地帯でした。そして珍しいことにこの堀は水堀となっています。
 
堀の部分は突出部のような形となっている箇所が2か所あります。これは「出構」と呼ばれ、東西2か所ありました。防御施設ともあるいは堀の水の高さを調節する施設などの諸説ありますが、まだはっきりと分からない状態です。
東出構
西出構
新府駅に戻った時雲は黒く今にも雨が降りそうな雰囲気でした。そしてここからは気分も重く西へ向かうことにしました。
 
○その後の新府城
武田氏滅亡後、まもなく発生した天正壬午の乱で旧武田領は周辺大名の激しい争奪戦の場所となります。そして甲斐では徳川家康と北条氏直が対決することになりました。北条軍は上野→信濃に入り、前進して甲斐に入ります。一方、甲府を既に抑えていた家康はここ新府で北条軍と対峙、皮肉なことにまさにかつて勝頼が想定していた戦略構想がそのまま再現された形であり、新府城は家康の陣城として活用されました。大軍の北条軍はこの新府城一帯を攻めあぐね、遂に和睦の決断をします。
勝頼の戦略構想が正しいものであったことが宿敵の家康によって証明されたのでした。

 

≪参考文献≫

平山優『武田氏滅亡』 角川選書 2017

丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』 平凡社 2017

山下孝司・平山優編『甲信越の名城を歩く 山梨編』吉川弘文館 2016

 
○アクセス
JR中央本線新府駅から徒歩20分で本丸
韮崎駅前観光案内所に新府城パンフレット有
 
「燃え盛る新府城の煙を背にして勝頼は立ち去る・・・」