~織田・徳川と北条の挟撃は着実に武田に損耗を強いていく。悪化する戦況打開のため、武田勝頼は新たな一手を目指す。そんな中一つの城が苦境に追い込まれつつあった。戦国史上でも類を見ない悲惨な戦いが始まる。それは武田家崩壊の前奏曲となる・・・~
○二正面戦争にジワジワと追い込まれる武田
東部戦線というべき関東方面においては武田は佐竹との同盟により、北条を追い詰めつつあった。だが逆に駿河・遠江方面においては、徳川と北条の同盟が成立したことで逆に挟撃を受けることになり、苦境に追い込まれつつあった。既に徳川軍は駿河の国府である駿府まで戦火が及んでいる状況であった。勝頼は何度か出兵を行っているが、家康は勝頼の本隊が迫るとすぐに撤兵し、今度は北条が東から出兵するような状態であり、まさしく泥沼の消耗戦に陥りつつあった。
天正8年5月、甲斐にて激震が走った。5月15日、甲斐都留郡に武蔵から北条軍が侵入して同郡北部の西原(現上野原市)で迎撃する事態が発生したのだ。それは甲斐に住まう人々にとって長篠の大敗さえも霞んでしまう凶報であった。先代信玄が当主となって以降甲斐にて外敵が侵攻することはなく甲斐国内は平和にあった。遡れば天文8年に信虎と北条との交戦が最後であり、足かけ41年遂にその平和が破られたのである。
そして東海方面においての状況悪化は深刻になりつつあった。この方面を統括する責任者は、一門筆頭の穴山信君であったが、悪化する戦況と共に武田家内部での処遇に不満を募らせつつあった。相次ぐ情勢の変動と共に信君の発言力は低下していっていた。彼は元々今川や三好・足利将軍家などの取次(外交)を担当していたが、殆どの窓口となった大名は滅亡もしくは没落していき、殆ど機能していなくなっていたのである。更に天正9年には、勝頼の間に溝が出来つつあった。信君の嫡男・勝千代は、勝頼の娘を娶る約束をしていた。これは穴山家が信友・信君と二代にわたって武田家当主の娘を正室とした慣例であったのだが、これに勝頼の従兄弟・信豊が不満を持ち、この婚約を破談にさせ、自身の嫡子との縁組をさせた、と伝わる。(『甲陽軍鑑』)やがて梅雪と号した信君は秘かにある行動を取りつつあった。
○武田家生き残りを賭けた織田との和睦交渉の行方
二正面戦争による戦況の悪化は歴然であり、勝頼は武田家生き残りのために起死回生の策に出た。
織田信長との和睦
であった。勝頼の目は既に東方に向きつつあり、大国織田との戦争は百害あって一利なしであった。情勢としては信長は西方の石山本願寺の包囲に全力を注力している状態であり、まだ今なら和睦のチャンスはあるかのように見えた。天正7年より武田は秘かに織田との和睦交渉の接触を開始した。ルートは2本でまず対北条戦で同盟を組んでいた常陸の戦国大名・佐竹氏を介した「甲江和与」である。佐竹は武田と同盟を結んでいるとともに織田とも友好関係にあった。もう一つは武田氏が帰依していた恵林寺の快川紹喜と、その弟子で美濃にいた弟子の南化玄興との間で交わされていた「甲濃和親」であった。
勝頼は11月には上杉景勝に和睦交渉の開始を連絡して、成立した際には上杉を含めた「三和」の形、つまり東方の武田・上杉と織田間での和平にすると約束したのであった。とはいえ、信玄の「背信行為」以降、信長の遺恨は凄まじく、よほどの説得材料となる「切札」が必要であった。勝頼にとっての「切札」はこの時武田に抑留されていた信長の息子「御坊丸」であった。彼は信長の四男で、かつて岩村遠山氏に養子として入っていたが、岩村城が武田に降ると共に武田に引き渡されて育てられていた。彼の帰国送還を条件として信長との和睦を目指していた。更に勝頼は嫡男・信勝に家督を譲ることまで持ち出してきた。信勝の母は信長養女であり、信長の外孫にあたる。これまで信長と敵対してきた勝頼が当主(屋形)のままでは和睦成立が難しいと判断していた武田側が、織田の血を引く信勝を新当主とすることで関係改善を真摯に望んでいることをアピールまでしようとしていた。(ちなみにほぼ同時期に北条家も氏政から氏直に家督を譲ったのは、氏直に信長の娘との縁談を持ち出すことで信長との関係強化を図ろうとしていたのである)
が、信長の態度は冷淡そのものであった。
まず安土城に派遣された使者は対面が許されず、更には返書は実に横柄なもので「内々に迎えを遣わそうとしていたが、その方よりさしあげられたのは、実に神妙である」とだけ記し、しかも宛名を含めて完全に勝頼を侮辱するものであった。更に交渉そのものもトラブルが発生していた。武田側は御坊丸、元服して信房を武田信豊の婿とすることを条件に帰国させるという条件であったが、交渉窓口であった佐竹義重の独断で無条件で送還されてしまった。更にこれを耳にした越後の上杉景勝が「話を聞いていない!」と詰問状を送ってくる事態に発展してしまった。景勝は勝頼が上杉に無断で武田・織田で和睦が成立したのではないかと疑ったのである。武田側は「こちらの預かり知らぬことである」と必死に弁明してなだめすかした。ところが更にトラブルが発生する。実は景勝の方も秘かに織田側に和睦交渉を持ちかけていたのであるが、武田側は織田との交渉のさなかにこの事実を知り、逆に武田側は「景勝殿が(こちらに断りなく)信長と接触しているという噂があるがこちらは貴方が盟約に背く御仁ではないと信じており、流言飛語だと思っている」と暗に牽制している。
信長との和睦交渉は天正9年まで続けられたようであるが、結局何ら成果の出せぬままに終了してしまった。以前述べたように信長は
「武田は何があっても絶対に許すつもりはない!!」
と宣言しており、その方針を変えるつもりは無かったのである。既に西方では石山本願寺が天正8年に和睦(実質降伏)したことで畿内の敵対勢力を一掃しており、西方の毛利氏も退潮しつつあった。北条氏からは従属という形で同盟が取り交わされており、最早武田と和睦を結ぶ理由は地上のどこにも存在していなかった。勝頼の信長との和睦を目指すという一大方針変換は完全にタイミング遅れとなってしまったばかりか、上杉や佐竹との同盟にも亀裂を生むだけという最悪の結果に終わった。
○追い詰められた高天神城
天正2年に勝頼が一大攻勢に攻略した高天神城は長篠の戦い後も維持されていた。遠江における数少ない拠点であるばかりではない。現在では高天神城は内陸部に位置しているが、当時は「菊川入江」を通じて海に面しており、水軍を運用するうえでも重要拠点であった。武田側は元の城主であった小笠原氏を国替えさせて、高天神城を直轄の城として本格的に防備改修すると共に岡部元信を城将として配置した。岡部家は今川旧臣であり、元信はかつて桶狭間の戦いの時に主君・今川義元が討たれた時はその首を織田側と交渉して返還してもらうといった剛直な武将であった。今川家が没落するとそのまま武田の将となるも、領域こそそれほど広くないが、外様国衆でありながら、遠江方面の軍政をゆだねられている程信任されていた。また水軍との関係も深い人物で彼をこの水軍の統括責任者としての立場から重職を任されていた。
だが天正5年以降、徳川方は高天神城封鎖の作戦を開始する。そのための策源地として設けられたのが今回紹介する横須賀城である。その後徐々に徳川軍は砦を築きつつ包囲の網を狭めつつあった。武田側は何度も高天神城に出兵しているが、諏訪原城という要衝を失った影響は大きく、補給が続かずに長期間軍勢を駐留できず引き上げていっている。天正8年には包囲網が完成して、高天神城は「高天神六砦」によって完全封鎖された。付城構築は陸上の連絡を遮断させるだけではなく、海上からの輸送さえも遮断する目的がった。10月には城の傍にまで軍勢を進め、堀をめぐらせ、土塁を構築するという大規模野戦築城によって「鳥も通れいない状態」であると徳川の武士であった大久保彦左衛門が書き記すほどの状態となった。更には家康は勝頼が来援した場合に備えての陣地まで構築するという念の入れようであった。
天正9年(1581)5月後半、城将岡部元信は、高天神に加えて、自身が管轄する滝堺・小山両城も引き渡すという条件に、城兵の助命を嘆願する矢文が送られた。家康は信長に対応を相談すると信長の非情な内容の返書が送られた。「勝頼が高天神城救援に出陣すればこれに対応する。降伏を受け入れるのは簡単だが、それでは来年の甲斐・信濃の武田討伐に影響が出る。長期戦を余儀なくすれば、天嶮の地形で長期戦になるかもしれない」と述べ、
「降伏の申し出を拒絶して、勝頼が見殺しにした形で落城させられたら、来年の武田攻めは容易になる。もっとも現場の責任者は徳川殿から自分は命令できる立場にはない。徳川家中で決めてくれ」
と家康に一見すると選択の自由が与えるという形で書状を送っている。(現在流行り言葉の「忖度せよ」という奴である)その後2か月にわたり、包囲戦は続けられた。勝頼は北条との戦闘に忙殺されており、こうして高天神城は見捨てられた。
3月23日既に城兵の多くは餓死するという状況の中で岡部以下残存の城兵は出撃して玉砕、ここに高天神城は陥落した。殆どが命を落としたが、僅かに軍監・横田尹松が秘かに高天神城の裏山の「犬戻り・猿戻り」という険しい間道を伝って包囲網を突破して本国に帰還した。他に信濃国衆・相木市兵衛や後に大坂夏の陣で真田信繁を討ち取る西尾仁左衛門など僅かであった。それ以外の城兵は全て犠牲になったのであるが、影響は大きかった。武田は重要拠点のこの城に領国である甲斐・信濃・駿河・遠江・上野・飛騨と全領域の国衆から城の守備にあたらせていた。そのために「勝頼によって見殺しにされた」というニュースは武田領全域に広まってしまった。
国衆が戦国大名に従っているのはその保護を得ることで、自身の領地を守ることにあった。何があっても大名は国衆を見捨てず敵国から攻撃を受ければ援ける、それによって信頼関係が成り立っていた。それが崩壊してしまったのである。織田家臣である太田牛一は
「武田勝頼は信長公の武威を恐れ、高天神城を干殺しにして、救援しようとしなった。それによって天下の面目を失ったのである」
と書き記す。勝頼の致命的失策であった。
○勝頼は何故高天神城を見捨てたのか?
それにしても勝頼は何故救援する姿勢すら見せようとしなかったのだろう?6年前の美濃岩村城の時も救援に失敗したが、とりあえず出陣することで「救援に向かった」というポーズを示しせばそれだけでも面目を保てたにも関わらずである。平山優氏の『武田氏滅亡』である可能性が言及されている。実は高天神城の包囲戦の時期は勝頼が信長との和睦交渉を行っていた時期と重なる。信長は交渉に対して明確に拒否の姿勢を取らず、「含み」をもたせるかのように長引かせていた。その間に徳川が高天神城を追い詰める時間を稼ぎ、状況が決定的になるや交渉を打ち切りにしていた。和睦交渉していある間に軍事行動を武田側は取れなくなる。自分から交渉打ち切りを宣言してしまうようなものであるからである。同じことは上杉景勝もやられている。上杉からの交渉も信長は明確に拒否せず、時間を稼いでいる。そしてその間に上杉家内の新発田重家を調略して、反旗を翻すや交渉をうち切った。
「勝頼は、信長との和睦という形で、高天神城を救おうと考え、軍事行動による後詰を控えたのであったが、じつはそれこそが信長の策略であった可能性が高い」と平山氏は記す。
勝頼と景勝の2人は必死に和睦を成立させようとして逆に信長に付けこまれて、自分の足元をガタガタにされてしまったのである。
全ては信長の思うがままであった。
高天神城落城、それは武田の崩壊への狼煙となったのである。
○横須賀城訪問記
横須賀城はその後、高天神城落城させた重要な城としてその後も存続しました。かつては海辺の海運の拠点として栄えましたが、江戸時代中期の地震での隆起により、入江が後退してしまい現在では海岸線から2キロ離れた内陸部になり、往時の状態を想像するのが難しい状態です。JR東海道線袋井駅から秋葉バスで現地に向かいます。「七軒町」バス停から徒歩10分ほどで
横須賀城最大の特徴・玉石垣で構成された石垣が見所です。
元になったのは天竜川の川石を原材料として見事な玉の形で構成されています。一見すると後世に築かれたんじゃないの?と思われるかもしれませんが、一部復元されていますが現存石垣です。
本丸櫓台などの重要部に構成されていました。
大手門跡
横須賀城は東西に長い連郭式の城です。
本丸内部
天守台石垣
外堀跡
ここも御多分に漏れず、近世になってからの宅地開発の波で現存するのは本丸部分のみ
二の丸跡
三日月池
南外堀跡
現在ではアスファルト道路となっていました。
≪参考文献≫
平山優『武田氏滅亡』 角川選書 2017
丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』 平凡社 2017
加藤理文・中井均編『静岡の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版 2009
○アクセス
JR東海道本線袋井駅南口から秋葉バス「横須賀車庫・大東支所」行バスで約20分460円「七軒町」バス停徒歩10分
「横須賀城に狼煙が一本・・・」















