~御館の乱は武田と北条の関係に亀裂を作ってしまった。「不信」は「疑心」に、「疑心」は「敵意」へと変貌していき、一度悪化し始めるともはや止める術は無かった。東国の雄である二者はここに再び敵対する。そして勝頼は新たな道を模索し始まる。それは武田家に「もう一つの可能性」を示すものであった~
○同盟は脆く、弱い
天正7年(1579)正月、勝頼と北条氏直の間で年始贈答が交わされ、表面上武田と北条の友好関係は維持されているかに見えていた。しかし御館の乱をめぐるそれぞれの対応は相手の不信を招き、いずれも秘かに敵対への道を取り始めていた。氏政からすれば勝頼は「実弟・景虎を見捨てた裏切り行為を働いた」とみなし、一方の勝頼からすれば「こちらは越後まで出兵したのに北条は他人の褌で相撲を取ろうとしているではないか」、また両者の火種となったのは上野東部を巡る問題があった。この地域は上杉領であったが、「御館の乱」ではこの地域の上杉家臣団は概ね景虎支持派であった。そのため景虎の実家である北条の配下となって共闘していたのであるが、氏政の対応は彼らに不満をもたらしていた。上杉家臣団は越後に出兵したまま、坂戸城の手前に留め置かれ、しかも肝心の北条本隊は冬とともに撤退してしまい、彼らは取り残されてしまう。その上、所領についても北条派の上野国衆に脅かされ、彼らは北条からの離脱を考え始めていた。一度景勝と敵対した彼らに上杉に戻る選択肢は残されていない。必然的に彼らが頼る相手は武田をおいて他に無かった。
こうして一連の行為は相手への敵対へと当事者たちに走らせていた。氏政は、2月には武田に出し抜かれぬよう北条側で武田との境目において噂を流布させるよう(しかも北条側からの工作であるがばれぬよう)指示を出し、あわせて韮山城といった伊豆、厩橋といった上野での武田との領国に近い城郭の改修を行わせるなど防備強化を始めていた。同盟国との国境において、城を新規築城したり防備を強化するのは敵国認定と同義である。一方勝頼は上杉景勝と妹の菊姫との婚姻にこぎつけ、上杉との同盟強化に乗り出した。一方の勝頼も真田昌幸を通じて旧上杉家臣団に調略の手を伸ばし、更に沼津で三枚橋城(のちの沼津城)の築城を開始した。
9月3日遂に氏政はついに同盟破棄の決断を下す。氏政側は勝頼が沼津に城を築いたことを敵対行為と認定して、これまで自分は我慢してきたにもかかわらず、このような敵対行為をした武田を非難する。一方の勝頼側は、氏政はこれまでの友好関係を一方的に破棄してきた、もはや信頼するに値せず、家臣団一同協議の末に討ち果たすことを決議した、と述べている。無論互いに相手の不実を詰る宣伝である。こうして武田・北条の同盟は崩壊して、遂に開戦に至ったのである。
○関東を席巻する勝頼
天正7年末~8年初頭にかけて勝頼は嫡子である武王丸(信勝)の元服に合わせて、重臣たちに新たな官職・受領名が与えられた。主な家臣では武田信豊は相模守、真田昌幸は安房守、穴山信君は陸奥守という具合である。いずれも東国のものであり、しかも相模守は代々北条家の隠居の名乗りである。安房守は上野攻略に従事する北条一門・氏邦の官位であり、ここに
勝頼は北条家打倒の意思を示すものであった。
勝頼は佐竹義重ら関東の反北条派と同盟を結び、関東にて一大攻勢をかけた。特に上野においてにおいては旧上杉家臣団が調略に応じて次々に寝返ってきており、
というべき勢いであった。真田昌幸を尖兵とする武田軍は遂に上野の要衝沼田城を奪取する。以降彼はこの「成果」を織田に服属した一時期を除き、二度と手放そうとしなかった。勝頼は信頼するこの武将に吾妻郡と利根郡という現在の群馬県の北半分というべき広大な地域の軍政を委任した。真田家は元来、外様の家であり、譜代の家では無い。父である幸綱や兄信綱はあくまでの岩櫃城将であり、吾妻衆への軍事的指揮権しか与えられていなかった。行政権も付与されたことで真田家は昌幸によってはれて譜代家臣に上昇したと言えよう。
破竹の勢いは昌幸ばかりでない。勝頼自身も自ら上野において一大攻勢をかけた。天正8年9月、勝頼の陣頭指揮のもと武田軍は圧倒的勢いで次々に北条方の城を落とし、この結果、北条は上野国における所領の大半を喪失、僅かに東南部の館林・新田金山といった部分を保持するのみとなった。武田方の勢いに恐れをなした隣国の下野(栃木県)の鑁阿寺、足利学校は、武田氏に禁制の発給を求めるほどであった。一連の攻勢によって大きな成果を上げた武田軍は一路帰還の途につく。そしてある城から攻撃を受けることになった。
○膳城の素肌攻め
膳城は赤城山麓の小丘陵を利用して築かれた、規模の小さい城であった。当初の城主は善氏と伝えられ、室町時代後期にその存在が確認されている。越後の上杉、相模の北条といった諸勢力の狭間で行き来していた。この時期の城主は河田備前守といい、もとは上杉謙信家臣であった。この時勝頼は次の攻略目標となる城を見定めるために巡見していたので、武田軍は小旗のみを携え、甲冑を着装していない「素肌」の状態であったという。これを見た膳城の城兵は武田軍に攻撃をかけてきた。そのため武田軍はそのまま「素肌」の状態で反撃に転じたのである。副将の信豊はただちに攻撃を正式に下知する様進言したが、勝頼は決定していた軍事行動を無視して、安易な城攻めするのはどうだろう、と困惑していたが、その間に武田軍は膳城に殺到、攻略してしまった。勝頼は攻略後、「早く嫡男の信勝に家督の地位を譲って、頭を剃り、家老のようになって軍勢の先鋒を務めたいものだ」と語ったという。
以上が『甲陽軍鑑』に記す「膳城素肌攻め」の顛末であるが、どこまで真実かは判断できない。
○勝頼が挙げた成果と東国の覇者となる可能性
以上のように、武田勝頼は長篠での大敗の鬱憤を晴らすかのように東方において怒涛の勢いで勢力を拡大させた。その勢いは関東の覇者・北条氏をして窮地に追いつめつつあった。北条氏政は
「このままでは当方は滅亡してしまう!!」
と悲鳴に近い心情を述べているほどであった。氏政は織田信長に従属を申し出た程である。
以上のように武田勝頼は東方においてその存在感を高めていた。その「成果」は以下の通りである。
・父・信玄が果たせなかった上杉との強固な同盟関係構築
・父・信玄が果たせなかった信濃全土統一
・父・信玄が果たせなかった越後への勢力拡大と日本海への道を開く
・父・信玄が果たせなかった関東における優位の確立と北条を滅亡の危機にまで追いやる
・長篠敗戦によって美濃・三河・遠江といった西方の領土を喪失するも、東方に勢力拡大することで父・信玄を上回る最大版図の達成
ここからは市井の勝頼贔屓の人間の希望的観測に過ぎないということをあらかじめお断りしておくが、
思うのであるが武田信玄はこの勝頼の東方への活路を見出す路線一本に絞るべきではなかったのではないだろうか?変に西方(天下?)に「色目」など見せず、信長との友好を維持して東国の覇者を目指す路線で進めば、武田家の未来も変わっていたかもしれない。
この点では「弟子」の徳川家康は明瞭である。家康は本能寺の変で織田家が一時的に機能麻痺した時、西方(尾張・美濃)を掌握できたにも関わらず、そちらには見向きもせずに甲信の方へと目を向けていた。もし西方に出せば、羽柴秀吉・柴田勝家らの織田家重臣との全面戦争になるリスクもあったのである。以後家康は東方において自らの地盤を固めることに邁進して、秀吉の忠実な同盟者として振る舞い、秀吉死去までは野心などおくびも見せなかった。そして秀吉死去の中でその安定させた地盤を武器に勢力拡大させたのである。「弟子」は「師匠」を「反面教師」として活用したのである。
さて勝頼はこのままいけば北条をも併呑して東方の覇者になる道も開けていたかもしれない。しかしもう情勢はそれを許さなかった。優位に立っていた東部戦線に対して、西部戦線である駿河・遠江で破断が迫りつつあったのである・・・
○赤城山麓の麓・雨の日に・・・

JR両毛線桐生駅にて下車
この日は午前中に「忍城」でリアル水攻めを体験するという壮絶な経験をしてようやく到着。ここから少し歩いていくと

上毛電気鉄道「西桐生」駅
ここから城門電鉄路線に乗車して膳城へ向かいます。

昔ながらの雰囲気を残す改札口

かつて東武鉄道で活躍した車両が中古として活用されています。

途中の膳駅にて下車
待合室のみの無人駅です。
ここから膳城までは徒歩10分ほど

膳城公園部分
これは復元された土塁でしょうか?

膳城は戦後の開発でその多くが失われてしまいましたが、城主であった膳氏の子孫が中心部を買い取り、それを県に寄付したために県指定史跡となっています。

北曲輪跡には「粕川歴史資料館」となっており、膳城の歴史解説があります。そしてありがたいことに膳城の資料もあります。

それでは城址の中心部に入っていきます。現在では空堀の底がそのまま遊歩道となっています。それにしても8月のせいか草が生い茂っている・・・

本丸と二の丸の間を遮断する空堀

内堀部分

本丸中心部
土塁なども残っており、城址としての面影は残しています。

解説版にある縄張り図
かつては南北に長く伸びた城でしたが、現在では中心部の本丸・二の丸のみとなり、その周囲は宅地化・田園となっています。

外堀

二の丸部分
≪参考文献≫
平山優『武田氏滅亡』 角川選書 2017
丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』 平凡社 2017
○アクセス
上毛電鉄上毛線膳駅から徒歩15分
・粕川歴史民俗資料館
開館時間 10:00~16:00
休館日 毎週月・火曜日(祝祭日の場合は、これらの祝祭日後の休日でない日)、12月28日~翌年1月5日以後は、毎週月・火曜日
(祝祭日の場合は、これらの祝祭日後の休日)
膳城に関する資料配布有
「膳城に狼煙が一本・・・」