○帰国する勝頼に襲い掛かる織田・徳川の反抗
長篠の戦いは武田の大敗に終わった。多くの将兵と信玄以来の歴戦の宿将を失い、一気に劣勢に立たされることになった勝頼。だが敗軍の将に安息の時は許されない。信長・家康は、一気に美濃・三河・遠江方面に迎えて大攻勢を開始したのである。
5月21日、合戦場からからくも逃れて長篠から離脱した勝頼はその後信濃国に入ると、戦後処理に追われることになる。甲府へ帰還する6月20日まで10日ほど信濃に在国して、戦後処理にあったいたのであろう。『甲陽軍鑑』では川中島の海津城に残留していて、宿将の中で数少ない生存者となった春日虎綱が、敗戦の報告に急遽かけつけ、勝頼を出迎えていたという。ここで敗戦処理にあたっていた場所は伊那郡の中で重要な拠点であった高遠城か大島城であるとされる(平山優『武田氏滅亡』)
○信玄が重視した城・大島城
天竜川の西岸に突出してそそり立つ段丘に築かれた大島城は武田の城の象徴である三ケ月堀と丸馬出のある城として余りにも有名な城である。平安時代末に南信濃の片桐為行が八男宗綱を大島郷に分知し、大島氏を称して築いたのが始まりと言われていますが、伝承の域を出ない。現在に残る城を築いたのは甲斐の武田信玄である。
天文23年(1554)8月、下伊那を占領した信玄は在地領主の大島氏より接収したこの大島城を上伊那の本拠地高遠城と下伊那の拠点飯田城の間の連絡・監視の城として戦略的に重視した。西上作戦(対織田・徳川戦)に先立つ元亀2年(1571)3月17日、信玄は重臣・秋山虎繁に大島城の一大改修工事を命じた。ここを三河侵攻、西上作戦敢行のための拠点とし、合わせて織田・徳川軍の侵入に対する外郭防衛拠点とするためであった。
信玄は敵の城を落とすと不要な城は破却し、必要なものは修築したが、要地の城は武田氏独自の縄張りによって城を造り替え、重臣を城代として置いた。武田氏の築城の象徴とされるのは「丸馬出」と「枡形虎口」である。丸馬出は、大手の虎口防御の為、虎口の前面に土塁を伴う半円状の曲輪を設け、この曲輪にそって弧状の堀(三日月堀)を設けたものである。丸馬出は、敵兵が虎口へ直接取り付けず、また城兵の出入を安全を確保する効果がある。枡形虎口とは、虎口と馬出の間に設けられた四角い空間で、出撃と入城を安全にし、さらに虎口に侵入した敵に側面攻撃(横矢)を加える効果がある。信玄は占領地支配の拠点にこのような特徴を持つ城を築き、ここを軍事・行政・経済の中心とし、城下町を建設していたのである。大島城はそれまでの無名の小さな城砦をほとんど新規築城に近い形でここに重要拠点に生まれ変わったのである。
元々大島氏の時代には領域の南端の小さな砦であり、北の方に大島館という居館(資料では北の城と呼称される)があった。それが武田の戦略によって大規模な城塞に変わると、城の前面には自然と人家が集まり、町屋が発達してきた。甲斐から派遣される将兵の館や屋敷が作られ、更にはその人たちが消費する物資を取り扱う商人たちが集まり、「大嶋町」といわれるほどに発展した「基地の町」であった。
そして2年後ー
○信濃に迫る危機
一連の攻勢の前に武田が長篠戦前に手に入れていた諸城の多くが陥落するか開城した。
古宮城、武節城、諏訪原城、犬居城、そして重要拠点であった岩村城と二俣城も包囲され、陥落の危機に瀕していた。現状では再反撃する力も残っていない武田にとってはいよいよ信濃防衛体制の構築が急務であった。既に領国では動揺が発生している。特に美濃・三河と国境を接する木曽・伊那両郡の武田方国衆に対して。まず勝頼は木曽氏の離反を食い止めるために木曽氏に対して永年の忠節を賞し、信濃国手塚(長野県上田市)で知行を与え、木曽谷の諸氏を取りまとめ、当主・木曽義昌に無にの奉公をするよう求めている。
そして伊那郡では6月下旬に遂に反乱が発生していた。飯田城主・坂西一族が反旗を翻し、織田方に寝返ろうとしていた。幸い事前に露顕して、松尾城主・小笠原信嶺によって鎮圧され。坂西一族はことごとく成敗された。実はこの時、織田信長は長篠の戦いにおける大勝に乗じて
一気に武田を滅ぼさんと信濃侵攻を企てていた。
そのために信濃国衆には織田方から調略の手が及んでいたのである。勝頼は信濃防衛体制の構築が急務であると認識する。
8月、勝頼は保科正俊に宛てに28か条に及ぶ軍令を発している。軍令の中には
「大島衆は直参として扱うこと」「大島が忠節を尽くせば恩賞は思いのままである」「大島城で必要なものは全て揃える」など大島城に関する命令が多く、以下に重視していたかがわかる。従来、この書状は元亀2年の西上作戦で前当主・信玄が出したものとされていたが、現在では内容から天正3年と比定されている。この時期の書状が分かりにくいのは信玄の遺言である「三年秘喪」に原因がある。そのため、勝頼は「病」にかかって「隠居した」信玄の代行者という立場で書状を出していた為、混乱が生じている。この中で伊那郡は北部を高遠城、南部を大島城と重要防衛拠点として重視されたのである。
○大島城その後・・・
幸い、勝頼の努力もあり(後日記事UP予定)、この時期に織田方が信濃侵攻することはなかったが、7年後の天正10年に現実のものとなった。この年2月16日、織田氏は大挙して侵攻に直面した大島城は戦わずして自落したのである。あれほど重視していたにもかかわらず、余りも呆気ない最期であった。その後、信長家臣の河尻秀隆らが容れ置かれたが、武田氏滅亡後に廃城となったと考えられている。
○見事な三日月堀
≪参考文献≫
平山優『武田氏滅亡』 角川選書 2017
河西克造・三島正之・中井均編『長野の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版 2013































