○国境の城防備強化と木曽義昌の警戒
勝頼は、伊那郡内の主要城郭に備えや人質などに関する指示を出すと、次に国境各口の防衛のための指令を列挙している。その中で重視されたのが信濃・美濃国境の妻籠城の防衛であった。天正3年(1575)中に美濃岩村城が陥落したことで遂に織田方が信濃に侵入する公算が高くなり、とりわけここ妻籠城がその危機の最前線にあったのである。
 かつての中仙道の宿場町として有名な妻籠宿、その頭上にある山の上に妻籠城はある。城山は南方山塊から下ってきた尾根が、木曽川と蘭川の合流点に突出し、川に面した北・西部分は断崖となっている。城の東側は中仙道が南北に縦断しており、妻籠城はこの重要街道を直接掌握できる位置にあった。妻籠城は鎌倉時代の文永年間に沼田家仲が築いたとも、木曽家村が築いたともいわれるが確証はないそうである。
 勝頼は先の大島城の項でも触れたが、木曽氏の重臣であり武田氏とも深い関係にある山村・千村両氏を中心に作成され、起請文で決して敵方に内通することはないこと、武田氏に忠節を尽くすことを骨子としていた。それは丁度信玄の死が公にされ(無論既に信玄の死去は公然のものとなっていたが)葬儀が行われた時に提出させている。勝頼は明らかに長篠敗戦後に木曽義昌の裏切りを警戒していた。そして不幸にも勝頼の懸念は7年後に現実のものとなり、やがてそれが武田家崩壊の呼び水となったのである。
 
○真田昌幸と同様「表裏比興の者」木曽義昌と妻籠城
その後木曽義昌は織田→徳川→豊臣と主君を変えている。まさに真田昌幸に勝るとも劣らない存在であった。天正12年小牧・長久手の戦いで家康を見限った木曽義昌は羽柴秀吉に鞍替えした。これに激怒した家康は天正12年(1584)9月に菅沼定利を大将に保科正直・小笠原信嶺・諏訪頼忠ら武田旧臣らを動員して木曽谷へ侵攻を開始した。そして木曽谷の入り口である妻籠城に押し寄せ、猛攻を加えたものの城将・山村義勝は奮戦し、激戦の末に徳川軍を撃退している。
さしずめ木曽谷版「第1次上田合戦」とも言って良いだろう。このように真田昌幸と木曽義昌は実にまるで合わせ鏡のような存在であったが、この後両者の命運は分かれる。秀吉は真田を「独立大名」として認定して、上田を安堵したのに対して、木曽義昌は徳川配下の「家臣」とされ、家康の関東移封とともに先祖伝来の木曽の地を離れ、遠く房総半島に移り住むことになったのである。この時、義昌に与えられたのは僅か1万石。これは木曽の年貢高と同等とされていたが、実際には木曽は材木で栄えた地であったのを意図的に無視されたのである。そして木曽家は義昌の死後に無嗣断絶となった。今日では真田昌幸と木曽義昌は知名度で天と地の差があるが全ては秀吉に「大名」と認められるか否かが両家の明暗を分けた。
 慶長5年(1600)の関ケ原合戦時には小笠原信之が家康からこの城の守備を命じられ、さらに中仙道経由で関ヶ原へ進軍していた徳川秀忠はこの城で関ヶ原の勝利の報に接することになった。
何気に歴史の重要な部分で縁のある城である。
その後、この城は大坂夏の陣とともに廃城となったのである。
 
○中仙道を東上
名古屋から中央本線塩尻方面へと電車で進みます。中津川を過ぎて長野県へと入ると一気に普通列車の本数は激減して、ローカル線の様相を呈してきます。
南木曽駅下車
ここはかの有名な妻籠宿の最寄駅・・・ですが結構距離があります。幸い駅から妻籠宿まで遊歩道が整備されているのでそこを進んでいけば、妻籠宿そして私の目指す妻籠城があります。
30分ほど歩いて妻籠城登り口に到達しました。
土橋
堀切
虎口跡
歴史的に重要な城ですが、大抵の人は妻籠宿の方へいくためこちらは誰もいませんでした。
腰曲輪跡
歩いて15分程で本丸跡に到達しました。竹林や草で城址の大部分は覆われていますが、この本丸跡はかなり開かれており、周囲を一望できます。
あそこに見えるのが妻籠宿です。

 

≪参考文献≫

≪参考文献≫

平山優『武田氏滅亡』 角川選書 2017

河西克造・三島正之・中井均編『長野の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版 2013

 

○アクセス
JR中央本線南木曽駅から徒歩25分で登り口
主郭まで徒歩15分
 
「妻籠城に狼煙が一本・・・」