武田勝頼は常に「微妙」かつ「中途半端」な立場に置かれていた。誰もが異議なくその立場を受け入れられることは終生訪れることは無かった。それは既に誕生の時からそうであり続けた。彼をそのような曖昧な存在に追い込んでいたのは、他ならぬ父親にあったー

 

○「敵国の姫」から生まれた子供

武田勝頼は、天文15年(1546)、武田晴信(以降は信玄で統一)の四男として生まれた。その本来の姓名は諏訪四郎勝頼。勝頼はこの世に生を享けた瞬間から常に微妙な立場に立たされていた。信玄の息子は7人いるが、彼だけ武田家の通字である「信」が無い。仮名の四郎であり、終生無位無官の身であり、「四郎」という仮名が他者からの呼び名であった。ちなみにライバルであり、義兄弟であった北条氏政は左京大夫(室町期の武家官位としてはほぼ最高位)・相模守と北条家歴代当主の官位を与えられ、上杉景勝は弾正少弼という養父・謙信の官職を受け継いでいる。そしてそもそも彼は「武田」の子では無かったのである。
 勝頼の母は諏訪頼重の娘で名前は伝わっていない。(諏訪御寮人、乾福寺殿)井上靖の小説およびそれを原作にした大河ドラマ『風林火山』では由布姫という名で呼ばれていた女性である。諏訪と武田は同盟関係にあり、当主・諏訪頼重は信虎の娘・禰々を妻にしていた。ところが兄の信玄は父親を追放するクーデターを起こすと義弟の「独断行動」を理由に、諏訪氏分家の高遠諏訪家の高遠頼継及び諏訪大社下社と結び、諏訪郡に侵攻を開始。諏訪頼重を切腹に追い込むと諏訪領を頼継と二分してしまう。信玄は抜け目なく甥にあたる頼重の遺児・寅王を奉戴して、これを旗印にすることで諏訪一郡を武田の領国化に成功させてしまう。諏訪御寮人の輿入れはこの時に行われた。『甲陽軍鑑』では、父を殺された娘を側室にすることに強い反対が出たものの、山本勘助が「彼女を産ませた男子に諏訪家の名跡を継がせれば信濃統治に有益である」と進言してこれが容れられている。この輿入れが武田家の重臣たちからも強い反対があったのが何かを暗示しているように思えてならない。
 勝頼の前半生については不明なことが多い。通説では「諏訪惣領家」を継いだとされていたが、近年の研究では実際には先述の高遠頼継の高遠諏方家を継いでいた(だからこそ高遠城主となったので自然と言える)であり、高遠頼継の養子とされていたのである。この後、頼継は武田に対する反逆をもくろむが失敗して処刑されたとされるが、実際には勝頼の養父という立場が考慮されて助命されたとされる。
実際に彼は北条家からは当時「伊那四郎」と呼ばれている。伊那は無論高遠のある伊那郡のことである。
 
○「事実上の次男」として
その一方で勝頼は他家を継いだと言っても、信玄にとっては重要な息子であった。というのも次兄である龍芳は失明しており、政治活動を行うことはできない。三兄信之は夭折であり、下の弟たちはまだ幼少である。必然的に長男・太郎義信を支えられる存在は勝頼以外にはなかった。当時、武田家一門では永禄4年の第4次川中島合戦で、信頼厚い弟の典厩信繁を失っていた。次の弟の信廉は文化人としての才はあったが武将としての才覚に乏しい。勝頼には(義信を支える形で)武田の柱石を担う存在であることが期待されていた。
 信玄は、一門であってもあまり大きな権限を与えていない。これは一つには武田家の宿阿というべき御家騒動を繰り返した結果、信玄自身も一門・親類への猜疑心が強く、その為、姉婿の穴山家を除くと各地の城代や郡司に任命された事例はほとんどない。その数少ない例外が
典厩信繁と勝頼であったのだ。庶子であり、「信」の字も持たされなかった一方で、「事実上の次男」として重要視される。それは大いなる矛盾であった。そしてこの後、運命は勝頼の立場を更に複雑なものにしていく。
 
○高島城史とお詫び
というわけで勝頼の生まれである諏訪の地を代表する城ということで今回、高島城を紹介するのですが実はお詫びしておきたいことが。
現在ある高島城は勝頼の時代の諏訪の城とは全く関係ない存在なのです。まだ当時その辺の事情を理解していなかった私はここを訪問して、勝頼の時代に思いはせていましたが、戦国期に存在した「高嶋城」は北東の茶臼山という山にありました。現在の高島城がある地域は元々諏訪湖畔の漁村でした。後になってそのことに気付いてしまいましたのでご容赦ください。お願いします。
 さて武田家滅亡後に、諏訪には信玄に滅ぼされた諏訪家の一族が最高して、諏訪頼忠が新たに高島の南に金子城を築いたのですが、その後天正18年(1590)に徳川家康が関東移封されると、信濃は豊臣大名の領国となり、この諏訪の地には秀吉配下の武将、日根野高吉が入ります。そこで高吉は新たに高島の地に目を付け、建設したのが高島城でした。その後、徳川幕府の時代になると、徳川譜代大名となった諏訪氏が再びカムバックしてこの地の大名として返り咲いています。その後諏訪氏は明治の廃藩置県までこの地を統治して、やがて維新と共に廃城となりました。建物も取り壊されましたが、明治9年には本丸は高島公園として開放されたることになります。現在では二の丸以下の郭は市街地化され痕跡をとどめていませんが、本丸には昭和45年に鉄筋コンクリートの天守が外観復元されています。
 
○諏訪湖の浮城

 

諏訪の地を訪れたのは3月のことでした。名古屋から中央本線の列車に乗車して、上諏訪駅にて下車します。

同駅構内には温泉の足湯があり、無料で利用できるといういかにも温泉の町らしい光景。

上諏訪駅

高島城は現在では市街地の真ん中にポツンと浮かぶような存在ですが、かつては諏訪湖の中に城があるようであったので、当時

「諏訪の浮城」という別名を持っていました。

これも天守と共に復元された冠木門と橋

現在では本丸の回りの堀が周囲の市街地と一線を画す高島城域の境界線となっています、写真に見えるのは隅櫓

天守

本丸周辺の石垣

本丸内は護国神社の境内であると共に庭園風の光景となっている高島公園となっていました。

天守の特徴として天守は屋根に瓦ではなく、檜の薄い板を葺いた柿葺(こけらぶき)きという珍しいものです。、これは諏訪の寒冷に堪えられる瓦が調達できなかったためと言われています。

内部は資料館となっており、諏訪の歴史を一通りやっていますが、特に目を引いたのが

大河ドラマ「風林火山」のポスターでした。

当然ポスターに写っている人物は内野氏の演ずる勘助とそして「姫様」こと柴本幸さん演じる由布姫。大分色あせていましたが、それでもこれほど立派に掲げられているということはやはりあのドラマが重要であった証でしょう。そういえば今はどうしているのでしょう。こうして書いていてふと気になりました。

天守から見た高島公園と・・・・

諏訪湖

高島城はもともと諏訪湖を天然の堀として、郭と郭の間は河川を引き入れて堀に組み込んだ水城であったのです。

三の丸御殿裏門

移築復元されたもので、現在の門の外側がもう諏訪湖でここから舟で発着できたそうです。

高島城の紹介はこの辺で

最後に現在では少し離れてしまいましたが、諏訪湖を訪れます。

3月半ばのことでしたが、雪は無かったのが幸いでしたがその代り湖まで来ると針で突き刺すかのように寒風が身体に襲いかかてきました。

最後に上諏訪温泉の温泉施設である「片倉館」にて入浴。

 

≪参考文献≫

丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』 平凡社 2017

河西克造・三島正之・中井均編『長野の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版 2013

 

 

○アクセス

JR中央本線上諏訪駅から徒歩10分
・復興天守閣
開館時間  9:00~ 17: 30( 10/1~ 3/ 31は 16:30まで)  

休館日   12月26日~12月31日

入館料   300円

「高島城に狼煙が一本・・・」