武田勝頼=長篠の敗将で歴史に名を残している。その名を知られているのはこの戦いにあると言って良い。しかし有名すぎるこの合戦、後世になって「一人歩き」したかのように大きく変えられて、現在に語られている。勝頼は当時、何を考え何故行動したのか、それは「愚行」であったのか。今となっては真実を確定させるのは至難の業であるが、できれば勝頼の立場を慮ってこれから語っていく。

 

歴史の教科書でも登場する「長篠の戦い」、だが有名すぎるこの戦いもその実態については今一つ「実像」が分かっていない。一般にこの戦いの概要を要約すると以下の通りになるだろうか

①天正3年(1575)5月21日、織田信長と徳川家康VS武田勝頼の戦いで、この戦いで織田・徳川軍(以下「連合軍」と呼称)が武田軍に大勝。これにより、武田の軍事力は弱体化して信長の天下統一に弾みをつけた。

②大敗した勝頼はこの戦いの後に押されるままになり、遂に滅亡の遠因となった。

③この戦いで「天才」信長は、三千挺もの鉄砲を算段に分けて、千挺ずつの交替射撃という史上初めての「新戦術」を発明した。

④逆に「愚将」勝頼は、「武田騎馬隊」の戦闘力を過信して、突撃する愚策を取った。

⑤この戦いは新兵器の鉄砲を集団戦術で投入した連合軍と旧来の騎馬隊を抱える武田軍の新旧軍隊の対決となり、ここに戦いの様相は一変した

 

以上になるだろうか。だがこれらの概要のうち、①以外は全部後世に勝手に作られた虚像に過ぎない。②に関しては後の章で後述するが、③~⑤は江戸時代に出てきた「小説」の話がいつしか史実にすり替わってしまい、それが「歴史的事実」として変質していく過程にすぎなかったのだ。歴史には往々にして後世の人間の「こうあって欲しい・・・」とか「これは・・・・であるべきだ」という思い込みがある。特に有名な歴史的出来事ほどこれらの虚像が大きくなるようである。それは歴史の見る時の難しさでもあり、面白さの証明である。

今回の内容に関しては主に「通説」の見直しに尽力された先人たちに敬意を表すると共に私なりに今回の長篠の戦いを述べて行こうと思う。

 

※最近、「新説」に対しての否定論(通説回帰)の論考が世間に出され、それらが受け入れられていると聞く。だがそれらについて私の感触を述べるのなら、自らの認識を改める必要性を感じなかった。それは後述していくことにする。

 

○戦場は何と呼ばれた?

一般的には「長篠の戦い」の舞台となった古戦場は「設楽原」と呼ばれている。だが実を言うとこの名前が登場するのは江戸時代の貞享2年(1685)に登場した『総見記』が最初で、それ以前の史料では殆ど見られない。ところが旧日本軍参謀本部が刊行した『日本戦史・長篠役』が、この名前を採用したことからこの名前が大きく普及した。実際には当時の信長家臣だった太田牛一『信長公記』では、(連合軍は)野田の先にある志多羅の郷のさらに先、あるみ原まで進出した。一方の武田軍は「勝頼は長篠城の攻撃に七人の武将を残し、自身は滝沢川を越えて、あるみ原を三十町ばかり進み、谷を前にあてて、西向きに布陣した」とある。当時の関係者による認識では戦場となった場所の名前は「あるみ(有海)原」と見てよい。なお現在では戦場となった場所は「設楽原」の呼称が定着しているので最後の「古戦場紀行」は「設楽原古戦場」で呼称していく。それではここからは戦いの概要を述べていく。

 

○長篠の戦いの勝敗を決定づけた前夜の動き


長篠の戦いを勝敗付けたのは実は両軍主力によるあるみ原での決戦ではなく、その背後の長篠城周囲の戦いであった。武田軍主力が前進したことにより、長篠城の包囲は3千程の留守部隊のみとなった。そこで信長は前夜の番に別働隊を編成して、夜間に南方の山中を行軍させ、長篠城包囲陣の一角にある鳶ノ巣山砦を強襲して長篠城の救援を達成させようとした。徳川家臣の酒井忠次に徳川軍のうちの優秀な弓兵と銃兵を集めさせ、更に金森長近らに信長馬廻り(親衛隊)の鉄砲500挺をつけさせた。この別働隊が21日早朝辰刻(午前7時~8時)に、鳶ノ巣山砦を強襲。呼応した城兵と挟撃して、武田軍の包囲部隊を一掃してしまった、この鳶ノ巣山砦の戦いについては「長篠の戦い」で取り上げられることは少ない。(あったとしても少し紹介される程度)だが本来はこれこそが作戦の主目的である「長篠城の救援」を達成させるためであったのだ。そしてこれによって主戦場での戦闘結果を左右することになる。

 

○勝頼の選択

『信長公記』によれば、戦いは「日出より」戦ったとある。しかし最初は小競り合い程度であった。ところが後方の鳶ノ巣山砦が連合軍の別働隊によって一掃されたことにより、武田軍は前後に挟撃される恐れが生じてしまう。最悪のタイミングで主戦場では徳川軍が柵から押し出した。武田軍は午前11時頃に総攻撃を開始して本格的な交戦を開始する。

勝頼が進撃を決断した背景について、歴史家・藤本正行氏は著作『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』あとがき(P223~224)でこう解説している。

「武田軍が全面的な攻撃を始めたのは、織田・徳川軍の別働隊に背後に回られてからである。その際、勝頼はつぎのようにかんがえたのではないか。

『敵の別働隊に襲われた味方(長篠城包囲軍)をただちに救援するのは、背後に丘陵と川があるので難しい。また救援のためには前面の織田・徳川軍の主力の抑えに自軍の一部を残し、主力を後退させることになる。敵前での兵力分散は得策ではないし、敵が総攻撃をかけてくれば、残留部隊の壊滅は必至である。勢いを得た敵はただちに追撃してくるであろう。丘陵と川に阻まれて、行く手の敵の別働隊がいては、集団のまま短時間の撤収は困難であるだいいち、あの強力な鳶ノ巣山砦を簡単に落とし、長篠城を解放した別働隊が、どれほど大兵力か分からない。これに渡河点を抑えられれば大変だ。下手をすれば、織田・徳川軍の主力と別働隊に挟み撃ちに遭う。いずれにしても後退は難しい。

 一方、敵が別働隊に兵力を割いたことは、主力の人数がそれだけ減っていることではないか。このまま何もしなければ、いずれは挟撃される。それならば、現在無傷の自軍(主力部隊)で、兵力が減っている敵主力軍を攻撃しよう。実際、敵の主力は柵から押し出してきた。座して挟撃されるくらいならば、こちらから攻撃すべきだ』

(中略)私に言わせれば、勝頼が攻撃した理由は謎でも何でもない。それが謎に見えるのは、結果が分かっている現代人が、その時の勝頼の立場に思いをいたさず、結果のみを重視するからである。歴史には、当事者しか分からないことおあれば、当事者だからこそわかっていなかったこともあるのだ」

これは勿論、藤本氏の状況分析による推論であるが、管見の限りこれほど当時の勝頼の立場にたっての解説は今まで見たことのない、というのが実感であった。現在でも色々、擁護派・批判派が推論を出しているがいずれも結果論の域を出ていない。後世の人間はいわばトランプゲームにおける「観客」のような立場であり、対峙する2者の情報(兵力や装備、置かれている戦況)を全て把握している(つもりである)一方の当事者はいわば対峙している状況で全てを把握しているわけではない。

 そして勝頼の置かれた立場からすれば「正面の敵に攻撃開始」というのは愚策でもなんでもなく、その場の状況判断としては「合理的」である。だが人間のやることは常に「合理的」選択をすれば、上手くいくものではないのである。そして何よりも大事なのは勝頼にはゆっくり選択を吟味する時間的余裕などなかったことだ。躊躇すればそれは即破滅を意味する。

 

○戦場の実相

まずは連合軍の鉄砲隊について。一般的には三千挺説と千挺説で論争されているかのように言われているが実際の総数は不明であり、千挺というのは最初に投入された分なので実数は不明とした方が良い。そして「新戦術」について言うならば有名な“三段撃ち”については非合理的であり、またそれらを行われた形跡も無い。また鉄砲を大量に戦場に投入することもこれ以前に行われており、またその中で交替で射撃することを誰も気付かなかったのは不自然である。複数の人間が、準備時間のかかる作業を行って間隙を埋めることは、あらゆる分野で幅広く行われてきた。例えば同じ飛び道具である弓は、それでも交替で射ることがあり、城壁に設けられた狭間一つに複数の弓兵が配置された場合などで交替射撃を行われていた。(これを軍学書では「狭間配り」と呼んでいる。弓でさえこうなのだから、鉄砲についても交替射撃を考え、実行していた人々がいて当然である。これを「天才信長の発明」とするのは贔屓の引き倒しというものである。

次に「武田騎馬隊」について。昨今、「戦場で騎馬攻撃をかけていた実例がある」という論拠をもって「騎馬隊」の存在が肯定的に語られるが、実を言うと議論がかみ合っていないように思える。騎馬武者が騎乗したまま攻撃するのと、それをもって「騎馬隊」が実在したのとでは=にはならない。「騎馬隊」の言葉には近代における騎兵隊とのイメージがごちゃ混ぜになっているのである。もしも武田軍が騎馬武者だけの大部隊を編成して、密集突撃をかけたとすれば世界史上における騎兵隊の先駆けとなる大事件である。実際には当時の騎馬武者は集団で行動する訓練など受けていないし、ましてや当時の騎馬というのは馬の世話をする徒歩の人々が必要不可欠な存在であった。軍役に関して「馬上○騎」という表現された場合には必ずそこには馬の世話をする馬丁や口取りといった従卒の人間が付随する。騎乗兵のみで構成された近代の騎兵隊と戦国の騎馬武者の決定的違いである。

 更に長篠の戦いの戦場は元々水田であったうえに地形が平坦では無く、そのうえ柵ばかりでなく、空堀まで設けられた防御陣地であった。そんな所にいきなり騎馬を突撃させても何の効果も無いのは自明の理である。(もし勝頼も宿老たちもその程度のことも分からなかった、というのであれば何も言うことは無い)

 

長くなったが、私なりに長篠の戦いの光景を想像すると以下のようなものであったのではないだろうか。

挟撃された武田軍は数を減らしている(筈)の正面の連合軍に向けて総攻撃を決定。(この状況では異論の出る余地などなく、宿老たちも当然賛成したのであろう)、そして突撃の援護をすべく「武田鉄砲隊」を前進させ、まずは両軍による射撃戦が展開。

(ちなみに豊田市郷土資料館蔵『長篠合戦図屏風』には武田側の銃撃に斃れた徳川兵が描写されている))

結局質・量ともに優る連合軍鉄砲隊が武田軍を圧倒して、援護射撃を失った武田軍は被害を増大させる。それでもひるまず戦闘を続け、騎馬武者に統率された歩兵部隊が防御陣地を突破しようと遮二無二攻撃を続けたが、損害が遂に攻勢持続点を超えてしまう。遂に勝頼の翻陣まで後退して、ここに武田軍は撤退を決断。チャンスと見た連合軍は徹底的な追撃戦を行い、ここで多くの宿将たちと将兵が倒され、壊滅的打撃を受けて敗走。ここに長篠の戦いは終結した。

 

結論を言えば、この戦いでは「戦いの様相が変わった」とか「戦術革命」のような事実はなく、両軍ともに戦国大名としての質に差は無かったこと、戦闘の様式も当時の「常識」にのっとった戦法であること、そして兵力や装備に勝る側がその利点を活かして勝ったまでのことなのである。

 

いずれにせよ勝頼には大敗したという事実だけが重くのしかかる。彼はこの後更なる苦境の中でなお生き残りに戦いを費やすことになる・・・

 

○古戦場を巡り、勝頼に思いを馳せる

まずは長篠の戦いを決定づけた鳶ノ巣山砦から

同砦は長篠城駅の裏手の川を渡った対岸にあります。

鳶ノ巣陣地跡

解説によれば、連合軍別働隊と武田軍守備隊の間では激しい激戦が繰り広げられ、三度に渡り争奪されたそうです。

なお他に4砦があるのですが、一部は崩落著しく近い将来遺構が見れなくなる可能性が高い。非常に勿体ない。

JR飯田線で2駅ほど戻り、三河東郷駅下車。

同駅が通称「設楽原古戦場」の最寄駅になります。

何もない無人駅ですが、そこは有名な古戦場、駅前には案内板が大きく掲げられています。「馬防柵」のある地点までは徒歩20分ほど。

やがて大きく開けていた地点までやってきました。写真手前に見えるのは高松山で家康の本陣が置かれ、信長も観戦のため合戦中はあそこに滞陣していました。

連吾川

なお、現在ではかなり地形改変が著しく、昭和50年代までは当時のものと思われる切岸などが残っていたそうです。

有名な馬防柵

こちらは昭和年間に復元されたそうですが、現地を踏査した藤本氏曰く「実戦向きではない」とのこと。軍用の柵は通常狙撃の妨げになること、横木を足掛かりに登られるのを防ぐため、腰くらいの高さには横木を付けないそうです。うーん、なるほど確かにこれでは簡単に登れそう。

こちらはより考証復元された部分

柵の前には空堀があり、

更には銃兵を保護するかのように土塁があります。柵のみが強調されますが、実際にはこのような防御陣地であり、これは突破するのはかなり困難と言わざるを得ません。

そしてその北側には山々があり、迂回が難しいのは実感できます。

更には完全な平地ではなく、ところどころ段差があります。

武田軍側から見た「馬防柵」

こうして見るとおよそ騎馬攻撃をかけても無意味であることが分かります。柵までも地形は平坦でないうえ、空堀・柵・土塁の3点セットで防御された陣地に騎馬で突っ込んでも意味ない!!

武田側の陣地があった高地は現在信玄台地と呼ばれ、その中心部には設楽原歴史資料館があります。ちなみに写真の銅像は幕臣・岩瀬忠震。幕末の開国交渉時に活躍した能吏として名高い人物で現在では再評価が進んでいます。彼はもとはこの設楽の出身でした。

展示内容についてですが、流石にここでは長篠の戦いに関する解説は「アップデート」がなされておりました。

資料館屋上から見た古戦場

武田勝頼の本陣跡

もっとも本陣跡は山林奥深くにあり、見つけるのは至難の業でした。先の資料館で道を聞いておいて良かった。

 

勝頼がこの地に滞陣していたのは前日のことですから、陣城を構えるの時間的余裕が無かったでしょう。

残念だったのは木々に遮られて戦場跡は全く見えなかったこと。

かつて四郎が見たであろう光景を見ることはできない…

信玄塚

長篠の戦いで命を落とした数多くの武田軍の将兵を地元住民が葬ったとされる場所です。それにしても信玄台地といい、やはり「信玄」なのですな。ここで静かに黙祷。

 

 

≪参考文献≫
藤本正行『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』 洋泉社歴史新書 2010年