5月はGW期間中の北条編を除いて、20日以上を一人の人物の一生を追跡していく難事業に費やしていきました。正直言うと、途中までは色々調べていく中での楽しさもあったのですが、終盤に入ると本当記事を書くのもシンドイ思いに囚われていました。何度も記事の内容の裏付けのために参考文献にあたったのですが、そのたびに目に涙を浮かべるという事態に。解ってはいても好きな人物が非業の最期を見届けるのは辛い。
只でさえ仕事面での新配置職場で地獄のような毎日であり、これと並行して今回のシリーズを行うのは公私共に負担が大きいものがありました。もっともだからこそ勝頼の生涯について調べようという気力が私の支えとなっていたのは事実。他の記事だと挫折していたかもしれません。その意味では勝頼に救われた部分も大きかった。さて実は先の仕事での事情により実は4月の「上越市再訪記」以来、2か月近くどこも行けない事態に陥ってました。正直言うと
大好きな大好きな戦を取りあげられ、ほとんど抜け殻のような九度山蟄居生活を送られてしまったコイツに近いものがありました。
「城じゃ~城をくれ~私に~」
禁断症状ですね。それが週末、信州にて濃密な1日を得難い友人と共に送る機会がありました。現在この記事については執筆を進めていますが、恐らくは週末までには記事UPをできるかと思います。そんなこんなで
6月は肩の力を抜いて、のんびり旅紀行で進めて参ります。
○独眼竜初陣の地
宮城県南部伊具郡(丸森町)の地は、戦国時代に伊達氏と相馬氏とで抗争の舞台となっていました。その中で相馬氏が境目の城として築いたのが今回紹介する陸奥金山城でした。天正4年、時の伊達家当主・輝宗は伊具地域の掌握を目指して侵攻を開始。天正9年(1581)から翌年にかけて、輝宗はこの地域の諸城を落とし、支配を確定させました。この時、輝宗世子が初めて初陣を飾ることになります。その世子こそがのちの伊達政宗でした。そしてここからたった9年で南奥州全域へと勢力拡大戦争への第一歩となったのでした。政宗はこの地を家臣の中島宗求が2000石で入城しました。この時にこの城は石塁・土塁・堀切などを備えた本格的な城塞として改修され、現在に至ります。
その後も江戸時代に入り、元和の一国一城令で多くの城が廃城になった流れもガン無視して、(一応名目は「要害」と名を変えて)この城は存続し続けました。もうその辺並の人間ではできることではなりませんね。
○山上にそびえる圧倒的な高石垣
職場の同志Tと仙台にて一泊したのですが、ところが出発時間になっても同志Tが待ち合わせ場所に来ないという異常事態が発生。実は前日、別々の宿をとっていたのが災いして、どこにいるか所在不明で電話しても出ない。おーい、どうすればいいのだ。電車車中から何度もコールしても音信不通。
もう同志Tを見捨ててこのまま突き進むこうか・・・
などと不穏な想定が頭をちらつかせていましたが、槻木駅でようやく起床した同志Tと連絡が取れ、結局ここで同志Tを待つことに。
おかげで金山城の滞在時間が1時間短くなってしまったが果たして吉と出るか?
阿武隈急行は福島~槻木駅の宮城・福島県間を結び第3セクター鉄道。
途中丸森駅にて下車します。
ここのありがたいことは有人駅ではレンタサイクルがあること。しかも駅営業時間内であれば、返却自由で料金100円なのでますますありがたい。
8時と普通なら観光協会はまだ開いていませんからね。
金山城は丸森駅から離れており、しかもバスの本数は少な目。自転車が一番手っ取り早い移動手段となります。
駅から自転車で25分ほどで麓の入り口部分に到着。ここからは案内板で登れます。
登城道
山頂部まで段々状に曲輪跡が配置され、米蔵などの諸施設があったとされています。
三の丸大手埋門の跡です。
出丸跡
登り始めてほんの15分で標高117メートルの本丸部分に到着
9月の時期なので、草ぼうぼうでしたがそれでも石碑や案内板があるのは嬉しい限り。
金山城案内図
さて金山城最大の見所はこの本丸裏手にある・・・
切石を積み上げた本格的なもので、もちろん伊達の時代に設けられたものです。
さて帰りに丸森町役場にて縄張り図を手に入れて帰還の途につきます。
途中阿武隈駅舎
駅舎の形が面白い。
やながわきぼうのもりこうえんまえ
何かめちゃくちゃ長い駅名標が妙に印象に残りました。
福島駅到着。ここから更に旅は続きます。
○アクセス

























