秋田県南部由利本荘市は鳥海山から日本海に流れる子吉川とその下流域である本荘平野。その中心地である由利本荘市にある城下町は江戸時代に作られた城下町が起源です。現在では城跡の大部分は公園として市の中心部にある市民憩いの場となっていますが、城としての遺構や名残についてはややさびしい感じもします。それは時代の移り変わりの時に起きた戦乱の渦に巻き込まれた証を忘れるかのように・・・

 

○秋田を襲った戊辰の戦乱

 慶長7年(1602)、関ヶ原合戦で徳川方として大きく貢献した最上義光が庄内地方及び由利郡を領有する出羽国一の大名となりました。彼は由利郡統治を重臣の湯沢満茂に一任して、この時に子吉川下流部に新たに築城したのが、城下町本荘の始まりです。この時満茂は

本城氏を名乗りました。これが現在の本荘市街の原型ともなりました。

 主家である最上家は義光の死後に相次いだ当主の死去や家臣団の抗争により、改易に至り、満茂も10年を経ずして退去して前橋藩預かりとなりました。城は秋田藩によって破城が行われ、由利郡は本多正純に与えられましたが、それもまもなく本荘には常陸府中から2万石で

六郷政乗が入りました。六郷氏入封後に城と城下は大きく改変され、外郭の堀と土塁は撤去されて城や城下町も縮小されました。2万石の石高では先代までの規模を維持できなかったのでしょう。その後は大きく変動もなく推移しますが、やがて時代の激動期の戦乱はここにも容赦なく襲い掛かりました。戊辰戦争においては隣国の大藩である秋田藩に同調する形で奥羽越列藩同盟を離脱して新政府側に立った本荘藩は、同盟側の庄内藩と先頭に及ぶも圧倒され、蹂躙されるに至ります。奥羽鎮撫総督府より本荘の放棄と城の自焼を命令され、ここに本荘城は落城の炎に焼かれてその歴史に幕を閉じました。この庄内藩の制圧時を含め、城下町の大部分が焼亡する悲劇となりました。秋田へ撤退する藩主一行が適量内で「天をこがす火の手」をみたと同行した侍医が記録に残しています。果たして彼らの心中はいかようなものだったでしょう。その後奪回することに成功しましたが、結局版籍奉還により廃城となりました。

 

 

○市街地を見渡す平山城

 

 

JR羽越本線羽後本荘駅。秋田からここまでは列車はそれなりに走っていますので比較的に来やすいのですが、ここから酒田方面は列車も少ないので(特急も普通も本当に少ないのですよ・・・)、移動の時は苦労しました。駅舎内の観光案内所にて確認しましたが、やはり普通の「公園」扱いとなっていまして、「城跡」としての認識は薄い感じがしました。駅から歩いて10分ほどで

本荘公園、かつての本荘城跡に到着しました。もちろん見た目まんま公園そのものでこれだと「城跡」ですよ~と言われても気づかないですね。

三の丸部分は公園となっており、市民たち憩いの場となっていました。

公園案内図

丘陵の頂上から見た三の丸部分

二段構造となっており、現在では階段と石垣で登り易くなっています。

頂上部分は本丸エリア

現在で中心部分には「本丸の館・修身館」が置かれ、本荘市の歴史や

城に関する解説展示が置かれています。無料で気軽に見学できるのは有り難いこと。

また周囲はよく見ると土塁部分の名残と思われる土の盛り上がりも確認されます。

本丸と三の丸を隔てる水堀

唯一「城」らしい光景が見られるのは三の丸前のここ大手門くらいでしょうか。この大手門は平成8年に復興された模擬門です。

土塁と水堀部分

今では静かな公園としてこの城跡は静かにその時の流れにあります。かつての戦火とは無縁であり続け・・・・。

 

○アクセス

JR羽越線羽後本荘駅から徒歩10分

○本丸の館・修身館

開館時間:9:00~17:00
入館料:無料
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日休館)
年末年始(12月29日~1月3日)

 

「本荘城に狼煙が一本・・・」