○関東の「境界線」
(武蔵)松山城は川越の北西に位置しています。松山城に関する史料は豊富ですが、その築城起源や詳細は明らかではありません。確かなのは15世紀後半から16世紀初頭にかけて扇谷上杉氏と山内上杉氏との抗争中に「松山張陣」「武州松山之儀」などいくつかで「松山」の名が見られ、この過程で築城されたと考えられます。
 天文6年(1537)に武蔵に「他国の逆徒」である北条氏が松山城を攻め、その後も北条氏と上杉氏が激しい争奪戦を繰り広げ、更に武田信玄も甲相駿同盟で参戦するなど、松山城をめぐって激しい戦いが繰り広げられました。その後も天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの中で前田利家・上杉景勝らの北国方面軍に攻められ開城しました。このように戦国時代を通じて松山城は関東をめぐる争乱では必ず戦場となった場所でした。それはまさにこの城の戦略的価値の高さの証明であったのでしょう。そして江戸時代に入り、戦乱が消えるとこの城は役割を果たしたかのように歴史の表舞台から姿を消します。まるで戦争にしか価値が無かったかのように・・・
 
○信玄・謙信・氏康の3者対陣
特にこの城のスポットを浴びたのは永禄3年~6年(1560~1563)にかけての戦いでした。扇谷上杉氏が滅亡して、松山城は北条氏による支配下に入ることになるかと思えました。そして長尾景虎(後の上杉謙信)が越山して関東に出兵した時に、謙信の帰陣後に太田資正が松山城を攻めとり、上杉憲勝を城主としましたが、北条氏康・氏政父子と武田信玄の同盟軍が永禄5年に5万5千人の兵力で松山城を包囲すると資正は苦戦し、謙信に救援を求めます。謙信は出陣しますが、永禄6年には武蔵石戸(北本市)まで兵を進めましたが、結局松山城は間に合わず、開城に至りました。
武田信玄・上杉謙信・北条氏康の三雄が同戦場に一同に会したのはこれが最初で最後のことでした。

 

○静かな山城公園として

松山城へは川越までJRで向かい、そこから東武東上線に乗り換えました。というか、むしろ東武鉄道で行った方が良かったかもしれません。電車一本で行けますから・・・
東松山駅にて下車
ここからは歩いても25分ほどですが、バスだと5分ほどです。川越観光自動車「東02系統 免許センター行き」の便は日中1時間に付き、3本ほど走っているのでそんなに苦労はしません。ただし、関東大都市近郊のバスだとよくあることですが定刻通りの運行についてはあまり期待しない方がいいです。
「百穴」バス下車
そのまま進行方向に真っ直ぐ進み
T字型の交差点を右折しきます。
松山城の遠景
市野川が囲み、その城の北から西・南東方向にかけては、この市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれる自然の要害となっています。
 
 
雷選寺
松山城縄張り図
松山城で特筆すべきは丘陵頂部2700平方メートルのうち、
堀と切岸で二分の一強を占めています。実際に使用できる平坦な曲輪内では約9000平方メートルと全体の3分の1に過ぎず、城の構造そのものが防備を固めるそのもでした。
それでは道を進んでいきます。
丘陵内は静寂なもので鳥のさえずり声が響くのみです。
15分ほどで本曲輪に到着しました。
松山城は未だ発掘調査が実施されておらず、それらの裏付けの意味も含めた史跡指定に伴う調査が行われたのは2003・2004年のことでした。その結果、本曲輪では二回の造成土と三面の生活面が確認され、その造成土には大量の焼土が含まれており、多くの戦闘に伴う火災とその後復興されたことを示しています。
上空撮影図
ちなみに松山城を含めて杉山城・菅谷館跡、そして小倉城は「比企城館跡群」として一括して国指定史跡となっています。
すでに杉山と菅谷は攻略しており、あとは小倉城のみです。
東松山市街・・・といっても木々で遮られてよく見えませんが
兵糧倉跡
この下に岩室観音堂がありました。でもここから下りていくのは危険すぎる。
平場跡
ここから先は長閑な田園風景が広がります。
三の丸跡
大きな空堀
春日丸跡
三の丸と二の丸間に有る細長い曲輪です。
ここも大きな空堀が
先程言った通り、大半を空堀で占めています。
二の丸跡
 
さて松山城を下りてそのまま外周を周ると
石仏群

岩室観音堂は城の一端にある通り、歴代城主が信仰護持してきた城の守護する聖域となっていました。

天正18年の豊臣軍による攻撃で焼失しましたが、江戸時代に再建されたのが現在の建物です。

 

○アクセス

東武鉄道東上線東松山駅から川越自動車観光バス免許試験センター」行きで約5分(190円)「百穴」で下車

徒歩5分で登山口 そこから徒歩15分で主郭

 

「武蔵松山城に狼煙が一本・・・」