GW期間中に開始した「北条家の城」特集も残すはあと一つ。今回で最終回になりますが、どれも各県でも優劣決め難い名城でした。GW期間の城特集は今回でラストで次回は5月8日になります。よろしくお願いします。
 
○関東七名城の一つ
{914D410D-B2C4-4181-98AB-6AB51D6174D2}
栃木県と群馬県境に位置する唐沢山城は、東国には珍しく高石垣を備えた城として知られます。この城は関東七名城に数えられ、
(厩橋城、川越城、忍城、金山城、宇都宮城、多気城と唐沢山城)ています。本丸のある山頂からは、南に関東平野を展望でき、ここも極めて良好に史跡が残存しています。地元の国衆・佐野氏を中心に上杉、北条とめまぐるしく城主の変遷があり、その度に城は改修が加えられて、大規模に拡張されてきました。
 唐沢山城を始めて築いたのは、10世紀ごろの平安時代、「平将門の乱」鎮圧で功績を挙げた藤原秀郷といわわれています。(伝承の類ですが)はっきりした史料で登場するのは『松陰私語』文明3年(1471)の記事にある「天命之上之山、佐野城」が唐沢山城を指すとみられます。
 城主は秀郷の末裔としてこの佐野荘一帯を治めていた佐野氏でした。ところが永禄4年(1561)以降、前年より関東侵攻を開始した上杉謙信の軍勢により、唐沢山城はたびたび攻められることになります。しかしそこは関東七名城、上杉謙信も書状で
「とても険しいところだが、苦労して攻めた」
と書き記しています。(蕪木文書)しかし永禄7年に遂に佐野氏は降伏し、城は上杉の管理下に置かれ、色部氏や五十公野氏など揚北衆が在番しました。関東平野中央部に位置するこの城を謙信は関東経営の重要な拠点と見做し、この城は改修の手を入れています。
 しかし永禄10年(1567)になると今度は北条氏の攻勢が激しさを増します。その激しさは同年12月2日の謙信書状に
「本丸だらけの状態となってしまった」
と書かれているほどでした。(「歴代古案」)この後いつかは不明ですが、北条に城は明け渡されましたが、まもなくその北条と上杉が同盟を結びしろは再び上杉軍が押えました。その後は城は佐野氏が管理下に置かれます。しかし佐野昌綱と宗綱父子が戦死すると、北条氏康の息子である氏忠が養子となって佐野氏の当主となり、唐沢山城主となりました。ここに唐沢山城は「北条氏の城」となったのでした。この時期に再び唐沢山城は改修され、山麓に根小屋地区の普請が行われました。
 天正18年(1590)小田原攻めの跡、唐沢山城は北条方から佐野氏へと戻ります。奪還後は佐野氏一族の天徳寺宝衍が城主となりますが、ほどなく豊臣家家臣富田一白の実子・信種が宝衍の養子となり佐野家を継ぐことになります。この人物が、最後の唐沢山城主となる
佐野信吉です。彼は秀吉の後ろ盾を得ながら、西国の手法を取り入れて関東でも珍しい高石垣を築き上げました。その後、江戸時代に佐野城へと居城を移しますが・・・残念ながら城が未完成のまま改易となりました。ほどなく同地は彦根藩領の御林山として管理され、城跡は結果的に幕末まで人の手が加えられることなく保護されました。明治維新後に旧家臣たちにより唐沢山神社yが創建され現在に至ります。
 
○城と神社と石垣と
唐沢山城はこの前紹介した東武鉄道佐野駅から東武線で進みます。
田沼駅にて下車。駅前の案内地図で唐沢山神社へと向かいます。
幸い道は狭いですが、一本道でしたので迷うことなく25分ほどで山麓に到着。
しかも本丸が神社なっているのが幸いして、城址まではアスファルトの坂道が整備されていましたので非常に登りやすい。
唐沢山城の入り口に着いたのは駅から歩いて35分
最初「神社になっている」と聞いた時には果たして城の姿を保っているだろうかと少しばかり不安だったのですが、この入口を見てそれは
杞憂に過ぎない
ことを確信しました。ここはくいちがい虎口
敵が直進できないよう鉤の手に折れて「くいちがい」となっています。しかも石垣で囲まれて。
天狗岩と言われる天然の岩山で城の物見台のような役割を果たしていたと考えられています。
唐沢山城は城までの上り道は整備され、その一方で城址としての見所も多い希有な城です。
登城道はこうして神社の桟道となっています。
大炊の井
直径8メートルに及ぶ井戸。今もこうして水をこんこんと湛えています。
四つ目堀
西の城域と帯曲輪とを分断する役割とになった堀切。かつては曳橋と呼ばれる橋でつながり、いざとなれば遮断することができました。
やがて石垣が敷かれたエリアに到達しました。ここらへんはまるで地元の近畿にワープしたかのような感覚に襲われます。
三の丸跡
唐沢山城では最大の面積を持つ曲輪でかつては賓客をもてなす応接間があったとされています。周囲は高い切岸となり部分的に石垣も敷かれました。
現在では神社駐車場となっている二の丸跡
やがて一段と高いエリアはまさに石垣がしっかり敷かれており、
一面を高々とした石垣が続きます。土の城を見てきた関東で山城でこのような高石垣は新鮮な光景でした。
メインとなる部分
虎口
中心となる本丸部分
現在では唐沢山神社となっており、地元では一大観光名所となっています。
駐車場にあるレストハウス
ここでは食事もできますし、唐沢山城の解説本も販売しています。
○北条氏忠
北条氏忠は通称六郎、氏康の息子とされていますが、現在では氏康弟の氏堯の息子で後に氏康の養子になったとの見解が出されています。北条家の序列では兄弟の中では氏政、氏照、氏規、氏忠、氏邦、氏光という順序でしたが、後に氏邦が地位上昇に伴い、氏忠と氏邦が入れ替わることになりました。氏忠は小田原城にほど近い相模新城(神奈川県山北町)の守将を務め、後年には下野佐野氏に養子入りして唐沢山城主となったのは先述したとおり。もっともこれまで上げた北条家兄弟の中では知名度が低く、余り知られていないのが実情です。
 氏忠が史料で登場するのは永禄12年(1569)に北条と武田が交戦中の時期でした。7月に伊豆方面に侵攻してきた武田軍に対して、韮山城を守る氏規京大が迎え撃った中にその名が見えます。氏忠はその後も韮山にも在城し続けています。その後は小田原城の警備にあたっていたと考えられます。
 天正10年、本能寺の変で織田信長が倒れると、旧武田領国をめぐって天正壬午の乱という一大戦乱が発生します。北条氏は上野神流川で滝川一益を破るとそのまま信濃・甲斐へと乱入します。一方、徳川家康も甲斐へと展開して、両軍は対峙します。この時北条氏は相模・武蔵方面からも別働隊を甲斐へ侵攻させますが、その司令官が氏忠でした。氏忠は甲斐郡内の御坂城に展開、徳川軍の背後を突こうとしますが、黒駒の戦いで徳川軍に大敗。この敗戦が契機となり、徳川・北条で和睦が成立して、天正壬午の乱は終結します。
 氏忠は天正14年に佐野家で当主と息子が討死した時に、養子として入封・・・というより送り込まれた、と言った方が良いでしょう。この時、佐野氏家中では当主弟の天徳寺宝衍を当主にと推す反北条派と、親北条派に二分されていました。氏忠の入城は当然ながら北条軍の唐沢山城乗っ取りという直截的な実力行使により実現したものでした。氏忠は、前当主・宗綱の娘と結婚して娘婿となり、家督を継承することになりました。その後は佐野領の統治にあたりながら、下野方面の軍事行動に従事し、更に沼田城引き渡しの際には氏忠が請け取り人を務めています。(これは真田氏との遺恨が深い氏邦・氏照を避けて、引き渡しを穏便に済ます処置と考えられています)
 天正18年の小田原合戦においては氏忠は唐沢山城ではなく小田原城に籠城します。小田原開城後は、兄・氏規や弟・氏光らとともに高野山に入り、その後は伊豆河津に隠棲して文禄2年(1593)4月8日に没しています。
 
なお他に氏政兄弟には氏光がおり、その城である小机城も名城です。詳しくはコチラでご覧ください
 
北条家、戦国大名の中でも最も先進的かつ合理的な統治システムを構築し、さらに着実に版図を拡大し続けました。そしてそれを支えたのが一門が一丸となっていたこと、そして土の城における築城技術を極限まで追求したこと、そして秀吉に対して最後まで抵抗し続けたこと、(秀吉でさえ最後はギリギリの駆け引きでようやく降伏に追い込むのが精一杯でした)その先進性や開明性はもっと評価されても良いと思うのですが如何でしょうか。
これにて「北条」編は終了します。ここまでご覧になっていただき、ありがとうございました。

≪参考文献≫

峰岸純夫・斎藤慎一編『関東の名城を歩く 北関東編』 吉川弘文館 20

黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』 宮帯出版社 2015

 

○アクセス
{6514E649-9FDA-4B94-939F-03D3DB2A545C}
東武鉄道佐野線田沼駅から徒歩25分
レストハウスにて書籍販売
 
「唐沢山城に狼煙が一本・・・」