○北武蔵最大規模の要害
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群馬県の県境近くに位置する埼玉県大里郡寄居町、ここは秩父山地を縫うように流れてきた荒川が関東平野へと注ぎ込まれる入口にあたる地でした。荒川は江戸時代から江戸に向けての物資の流通で栄えていましたが、それは時代を通じて変わりません。そしてこの要衝を扼する地として築城されたのが鉢形城であり、現在では中核部分は国指定史跡として相応しい大規模な整備が進められています。しかもその一角には「鉢形城歴史館」が作られ、その歴史を十分に味わうことができるのです。
 鉢形城は北条氏が関東に入るずっと前から存在し続けた歴史の古い城です。歴史の表舞台に登場するのが、文明8年(1476)6月、長尾景春が、この城にて主君・上杉(山内)顕定に反旗を翻した時です。「長尾景春の乱」として名高いこの乱は「応仁の乱」に先駆けて関東に戦乱の時代の訪れを告げる狼煙のようなものでした。景春が鉢形城を本拠としたのは、武蔵・上野の両国を睨みを利かせるのに最適であったこと、従兄弟の所領が秩父との連携の際に重要であったことからでした。やがて扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が鉢形城を攻略して、鉢形城には山内上杉氏が入ることとなります。この後は鉢形城は山内上杉氏の拠点となり、扇谷上杉氏との抗争での衝突の場所となります。しかしやがて両家ともに新興の北条氏の勢力拡大に敗れて没落して、鉢形城を管理していた上杉氏の家臣・藤田氏は北条に北属する際に氏康の息子・氏邦を養子に迎え、ここに鉢形城は北条の城郭となります。氏邦は本格的な大改修を行い、現在の鉢形城はこの氏邦の時代に整備されたものです。氏邦は小田原城中で行われた豊臣軍への迎撃方針で出撃論を主張しましたが、籠城派に敗れて鉢形城へと戻り、籠城戦を行うことになります。天正18年(1590)5月13日、鉢形城は前田利家・上杉景勝ら豊臣北方方面軍により攻撃を開始され、1か月後の6月14日、開城しました。その後徳川の入封後に家康家臣の成瀬正一が入城しましたが、まもなく廃城となったと考えられています。
 
○整備された広大な空間
鉢形城は古くから地元では有名で国指定史跡に指定されたのは昭和7年の事です。以降長いこと発掘調査が進められ、整備された面積約24ヘクタールの縄張りを今現在も伝えてくれる北条の城でも貴重な城跡で、本当に北条の城はどこも非常に良く復元されいるのが有り難い。最寄駅はJR八高線寄居駅から
閑静な田園地帯と古い家が立ち並ぶ街です。
鉢形城までは徒歩25分ほどで到着しました。
下級武士の住まいがあった曲輪で、周囲には土塁が築かれていました。この外には守りも兼ねて城下町もあったようです。
そして外曲輪にあるのは鉢形城歴史館
ひとまずここで休息と見学、予習を兼ねて入館すると良いでしょう。鉢形城についての解説リーフレットが200円で販売していますのでオトクです。30分ほど散策するといよいよ城跡内見学をスタート!
土塁
そして空堀
馬出
馬出は、城の出入り口である虎口を守る小さな曲輪で、城兵の出入りを安全に行う施設です。堀で四方を囲み、土塁は敵兵に面する官署に設置されていました。
二の曲輪跡
広大な空間を非常に草も刈りこまれていまして(訪問時は8月の真夏)、周囲を遮る者なく見渡せるのがこの城の良い所。発掘調査の結果から、掘立柱建物跡、工房跡、土坑、溝などが検出さています。
二の曲輪の道理は、三の曲輪との堀に沿って土塁の基底部が確認されています。これは盛り土で構成された人工のものです。
復元整備された柵列と土塁
三の曲輪内部の四阿
広大な空間を石積み土塁が階段状に展開されていました。
井戸跡
これも発掘調査の結果に基づいて復元整備された四脚門
石積土塁とは土塁の表面に川原石を階段状に積み上げているのが特徴で、約1メートル積んでて控えを造り、更に積み上げて土塁全体を高く作り上げています。階段状にすることで城兵は素早く駆け上がれるようにしました。
西国の石垣技術とは異なる東国独自の進化を遂げた石垣の象徴と言えます。
伝逸見曲輪の空堀
鉢形城跡は、伝逸見曲輪だけにかぎらず、この他にも複雑な地形をした処が多く残っています。
本曲輪背後に残る石垣の遺構
 
荒川
東京へと流れるこの川の断崖に鉢形城は築かれました。まさしく天然の要害ですね。
ちなみにこの川向かいの対岸に対陣していたのは氏邦にとっては憎み手も余りある宿敵ともいうべき真田昌幸でした。
 
○北条氏邦:宗家と袂を分かつ
北条氏邦は氏政の弟で氏康の四男として誕生しました。永禄元年(1558)に武蔵国衆藤田氏の婿養子となり、家督を継承。以降は北武蔵の領国支配と上野領国化に奔走することなります。従来は氏政・氏照・氏規と同じく、正室・瑞渓院の子供と言われていましたが、しかし従来の北条兄弟の序列では下の弟・氏規より低く、側室の生まれであったとするのが有力です。以降は鉢形領(当初、拠点としたのは花園城)の領国支配を進めながら、本城小田原の意向に沿いながら、上野進出を進めます。
 甲相駿三国同盟の崩壊により、上杉との同盟締結に向けて奔走したのも氏邦で、本城の氏康・氏政父子の意向も踏まえて上杉氏との交渉にあたり、何度も小田原へ出向き、また上杉方の使者の饗応に相応の費用と手間をかけて奔走しました。この間に武田軍の侵攻に有り、駿河及び三増峠の合戦に出陣し、武田との戦闘でも多大なる犠牲を払っています。そして苦労して締結された越相同盟でしたが、元亀2年(1571)上杉との同盟に熱心だった氏康が死去し、氏政は再び武田との同盟に動きます。この流れは氏邦にとっては政治的打撃となり、これまで一枚岩となって団結していた北条氏内部に初めて亀裂が走ることなります。その結果はやがて小田原の陣での分派となって顕在化することになったのです。その後も氏邦は上野方面の軍事を担当しますが、「御館の乱」での実弟・景虎の支援は後手後手にまわり結局、越相同盟で送り出した弟を救うことはできませんでした。更にこの「御館の乱」を契機に北条と武田は遂に戦争状態に突入。上野方面における武田勝頼・真田昌幸の攻勢は凄まじく、上野方面の領土は大半を喪失、さらに本領である鉢形領すら攻勢の矢面に立たされることになりました。兄の氏政もこの状況は「このままでは当家は滅亡」との危機感を深め、織田との同盟に向けて奔走することになります。以降も氏邦は武田家滅亡後も真田や佐竹との反北条勢力の交戦に費やし、上野の領国化を進めていきます。
 悲願だった上野領国化は豊臣政権との交渉を通じて、沼田城を譲渡されたことで達成されたかに見えました。しかし、この後他ならぬ氏邦の管轄・上野で起きたある出来事で全ては無に帰しました。いわずもながな「名胡桃城奪取」です。この事件での対応では氏邦は一貫して北条宗家との意向に沿って行動しており、名胡桃城奪取でも、実行者である(氏邦の重臣である)猪俣邦憲宛ての氏政書状でも「名胡桃城の至近距離にある権現山に城を築くにあたって、詳細が分からないので、細かい絵図を送って早急に送るよう」に命じています。この後、北条滅亡後も猪俣が処分されなかったことを見ても、「彼は命令に従って実行したにすぎない」との認識が敵味方とも共有されていたのではないでしょうか。
 さて北条家の迎撃戦略にあたって氏邦は首脳部との戦略上の見解相違から、兵を率いて鉢形から帰城していまします。宗家の迎撃戦略において小田原に精鋭兵力を集結させ、箱根山で決戦する方針でした。そのため各地の北条方の城郭は兵力不足になり、「国民兵」で補充する方針で展開していました。無論これらの城郭が長期にわたり保持できる可能性は希薄で、時間さえ稼げれば良いといのが小田原の方針でしたが、氏邦にとってはこれは許容できないものだったのです。多くの家臣達の犠牲の末に手に入れた北武蔵・上野領を見殺しにつながるからです。いずれにせよこれまで鉄の団結を誇った北条で遂に内部対立が露顕した瞬間でした。
 さて鉢形城に籠城した氏邦は3200の城兵と共に豊臣方北方方面軍と交戦し、1か月後には城兵の助命を条件に開城します。自らも前田軍に預けられ、加賀に預けられることになりました。結果的に氏邦は抗戦しつつタイミングを見計らって降伏することで将兵の助命に成功して家臣に対する責任と、敵の大軍を一定期間拘束することで、小田原宗家への義務も果たしたと言えるでしょう。その生涯を終えたのは兄氏政の死後7年後の慶長2年(1597)金沢でのことでした。遺骨は旧鉢形領の正龍寺に葬られることになりました。
 

≪参考文献≫

黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』 宮帯出版社 2015

西股総生『東国武将たちの戦国史』 河出書房新社 2015

峰岸純夫・斎藤慎一編『関東の名城を歩く 南関東編』 吉川弘文館 20

○アクセス
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JR八高線「寄居駅」から徒歩25分
・鉢形城歴史館
開館時間 9:30~16:30
休館日  月曜日(月曜日が祝日の場合は、その翌日)、祝日の翌日、年末・年始
入館料  200円
※歴史館にてリーフレット販売あり
 
「鉢形城に狼煙が一本・・・」