4月の業務研修で肉体・精神ともボロボロで本来シリーズ企画として予定していた「北条編」と「勝頼編」をとうとう取り掛かれないまま、5月を迎えてしまいました。現行どこまでペースを維持できるか分かりませんが、何とか今月中に上記企画をご紹介してまいります。
さて北条氏、ドラマなどでは脇役扱いであまり取り上げられる機会の少ないですが、私は「家」としてみた場合一番好きです。トータルバランスにおいて優れ、民政においても気を遣い、歴代君主には暗君も昏君もいない。滅亡の瞬間まで発展し続けた、そして何よりも
一族内において家督をめぐる内紛が一度も無かった
これは過去の歴史を見ても希有な存在だったと言えるのではないでしょうか。試みに有名な戦国大名はどうだったでしょう。彼らはいずれも親兄弟時には息子とすら争い、殺し合いといった流血が多くありました。いかに完成された存在であったことでしょう。
そして城も極めてシステマティックに構築され、いずれも名城に指定された存在
でした。今回は4代目当主・氏政と彼の兄弟たちをテーマにその名城をご紹介してまいります。
 
○小田原城 北条氏100年の本拠地
神奈川県西部、小田原の町に鎮座する小田原城は、箱根山塊より続く丘陵部に選地した城郭で、北に丹沢山塊、南には相模湾を配する風光明媚な城として古くからの町の象徴となっっています。そしてここは戦国時代まで関東の「首都」でありました。
 小田原城がいつ誰により築城されたのかは定かではありません。南北朝時代には北条(これは鎌倉幕府執権の方)時行討伐のために鎌倉へ向かう足利尊氏・直義兄弟がこの小田原の「上の山」で野営しています。本格的に歴史の表舞台に登場するのは室町時代後期、扇谷上杉氏の配下である大森氏は小田原城にありましたが、文亀元年(1501)に伊勢宗瑞ー歴史上では北条早雲と呼ばれる人物ーにより、小田原城を攻略されました。宗瑞は小田原城攻略後も韮山城を本拠としていましたが、2代目・氏綱の時代に正式に北条氏の本拠地となりました。この氏綱は恐らく戦国大名でも屈指の名君であり名将でした。普通は2代目と言うと初代に比べると人物的に小粒というのが相場ですが、彼は違います。印判状という文書体系による統治による行政システムを構築し、合理主義的発送に基づく支配を志向したという意味において、その先進性は織田信長、豊臣秀吉に先んじるものだったでしょう。綿密な計画性と臨機応変さ、戦略・外交・謀略・戦術のすべてにおいてバランスのとれた名将でした。これ以後天正18年(1590)の小田原合戦で秀吉に明け渡すまでの約100年間北条氏の城として鎮座し続けました。
江戸時代には無論「首都」は江戸でありましたが、小田原は西方の守りとして重視され譜代大名の大藩が入りました。その城下は、最大11万7000石の城下町であるとともに東海道屈指の宿場町としても栄え、ずっと東海道の要衝として栄え続けています。そして小田原城は近世城郭として改修され、その天守は昭和に鉄筋コンクリートで再建され今も町のシンボルであり続けます。
 
○近世と戦国、2つの側面を持つ大城郭
JR東海道本線、小田原駅。小田原城はここから僅か徒歩10分の所にあります。小田原はかつて北条帝国の「首都」であった名残か随所にかつての大城郭の断片が残っています。観光パンフレット片手に市内随所を歩いて参ります。
市街地に残る遺構・三の丸土塁
ここはかつて三の丸があり、その土塁遺構です。この近くに幸田門と呼ばれる門があり、上杉謙信や武田信玄はこの辺りを中心に攻め込んだとと言われています。
やがて石垣と広大な水堀に囲まれた小田原城跡公園に至りました。
小田原城二の丸
小田原城も近世城郭の例にもれず、明治の廃城後に多くの建物が取り壊されました。しかし近年になり10年に及ぶ発掘作業が進められ、建物の復元が進められて、今ではすっかり城郭らしい風景を取り戻しています。
馬出門
三の丸から二の丸へと入る大手筋に設けられたもんでその内部は枡形虎口構造となっています。
復元された銅門
二の丸エリアは観光案内所が設けられ、レンタサイクルもやっています。そして随所には土塁や櫓跡もあり、どこに何があったのかの解説もきっちり入れてくれるのは有り難い。
住吉橋と埋門

木造復元された銅門

二の丸には御殿や藩庁など城の中枢部分がありました。現在では「小田原城歴史見聞館」が小田原城の歴史を解説しています。
さて小田原城本丸部分の石垣は所々大きくゆがんだ形になっています。これは
関東大震災により崩落したものです。
石垣でさえ、大地震の前では脆いものなのは現代でも無縁ではありません。
 
さてそれでは本丸へと登っていきます。
本丸を守る最後の関門である常盤木門
本丸大手門にあたるこの門は昭和46年に再建されたもの(鉄筋コンクリート一部木造)現在では内部は見学でき、甲冑が展示されていました(ただし天守や見聞館と別料金)
現在の天守は昭和35年に鉄筋コンクリートで再建されたもので天守台石垣を含める高さは30.9メートル、復元の基になった宝永年間天守では最上階には高欄付廻り縁は存在しませんでしたが、昭和の再建時に小田原市の要望により展望のために付加されました。最近になって大改修工事を行い、大幅にリニューアルされた形で再オープンしました。ちなみにかつてこの天守台石垣の上なんと再建までに
遊園地の観覧車が設けられていました。
まぁ城跡に遊園地や動物園が設けられるのは珍しくありませんが、天守台に観覧車というのは空前絶後ではないじゃないでしょうか。この観覧車、戦後まもなく建設されましたが、数年で撤去されたもので天守の展示にその写真が残っています。さてそれでは天守最上階に上がり、

石垣山

あの山の上に秀吉が築城した小田原攻めの大本営・石垣山一夜城がありました。

南には相模湾そして伊豆半島といったその風光明媚な光景
JR小田原駅と御用米曲輪
JR東海道線を挟んだ向かいには八幡山古郭があります。
 
天守台の反対側もかつて100年前の震災の爪痕が残っていました。
御用米曲輪跡
その名の通り、江戸時代には米などの物資を貯蔵する場所であるとされています。現在では整備工事中でこれが終われば、
戦国と江戸、2つの時代の小田原城の魅力を体感できるようになると言われています。
 
・・・・さてここまでは近世江戸時代の小田原城について回ってきました。ここまでは余り北条時代の遺構は残っていないように見えるかもしれません。でもそんなことはありません。かつての北条氏時代の遺構はキッチリ残っているのです。まずは小田原駅まで戻り、
北条氏政・氏照の墓
小田原駅前の繁華街の一角に残ったものです。
駅の北口にある伊勢宗瑞(北条早雲)像
八幡山古郭
かつて小田原合戦時には「御隠居」である氏政がここに居住して、当主である氏直を補佐して籠城戦の指揮を取り続けていました。
 
線路を挟んだ向かいの主郭とまさに2つ目の主郭部分であったのです。
現在では綺麗に整備され保存されています。
 
小田原城惣構
これは市内の西北部分に残っており、かつて城下町全体を覆うその規模の大きさの一端を知ることができます。そしてこの部分は完全に
山城となります。まあ途中まではアスファルト道なのでそれほど苦労はしませんでしたが
小峯御鐘ノ第大堀切
かつての大城郭、小田原城の西端部分にあたりました。
その深い大堀切は圧倒されますが、その底を歩くこともできます。その規模は南北2.3キロ、東西3キロ、総延長9キロに及ぶ規模でした。
この惣構、一般には町を集落を囲んで丸ごと防衛するものとされていますが、北条氏の場合は更に軍事上の観点がありました。
すなわちこの惣構えによって防御に適した地形を利用して防衛ラインを構築すること、守備側は容易に部隊を移動させて配置転換や増援を行うことができるのに対して、敵はその外側が丘陵や河川、沼沢地であり、部隊の展開もしにくい。またこれによって陣地に配備する兵力そのものも節約できるメリットもありました。
まさにシステマティックな機構を創出した北条家でしか実現できない代物でした。一般的には豊臣秀吉は余裕綽綽で城を攻囲していたとされていますが、実際には戦術面においてはこの城を攻めあぐねたのが実態でした。
 
○暗君?北条氏政
4代目当主である氏政は一般的には亡国の暗君と解釈されています。代表的なのは「汁掛け飯」でしょう。もっともこれは滅亡という結果から逆算したようなもので決して能力は低いものではなかったように思えます。
氏政は氏康の二男で本来長男がいましたが(氏親)、早逝したために嫡男として扱われました。その当主就任後にいきなり
上杉謙信(当時は長尾景虎)による大軍に小田原城を包囲される
という北条氏始まって以来の危機に直面しますが、これを御隠居となった父・氏康とともに冷静に対処して、その後は上杉との戦争も徐々にでしたが、武田信玄との同盟による連携で有利に進めました。一時はその武田との敵対によって宿敵・上杉との同盟に方針転換しますが、これは氏康の死と共に武田との再同盟に踏み切ります。その後上杉との戦いで決定的戦果を挙げることに成功しました。天正2年(1574)に氏政は下総の関宿城攻略に成功。同城は利根川水系と常陸川水系とを連絡する交通・流通上の要衝でその価値を父氏康は
「(関宿城を取ることは)一国を手に入れるに等しい」
と言わしめた城でここを手に入れたことで関東の覇者という立場を不動のものにしました。しかしこの後再び危機が訪れます。「御館の乱」での対応を巡り、同盟相手である武田四郎勝頼との間で敵対関係に至ったのでした。これに関しては一般的には四郎のせいとか言われていますが、実際には双方のすれ違いが意図せずに遂に開戦に至ったのではないでしょうか。いずれにせよ武田との戦争は北条を再び苦境に立たされます。特に上野では要衝沼田城を失陥するなど武田側の一方的な優勢になっており、その状況は氏政も「このままでは当家は滅亡してしまう」と言わせるまでの危機でした。ここで氏政はここで「敵の敵は味方」、徳川家康そしてその背後の織田信長に接近して、軍事行動を取ります。この関係が遂に武田滅亡への引き金になったのは周知の通り。しかし後の展開を考えるとはたして勝頼はもちろん氏政にとってこの流れは得策だったのでしょうか・・・
この後の展開は周知の通りですので、割愛して氏政の「業績」について触れます。隠居後の氏政の動向で特筆されるのは、彼はこの後、武蔵江戸、岩槻、下総関宿・佐倉といった領国統治に自ら辺り、支配を展開しました。この時に彼が拠点として整備したのが江戸城であり、氏政はこれら「新領土」の統治拠点として江戸を中心にした地域再編を進めたのでした。俗に江戸は徳川家康が関東に国替えになった時に小田原を本拠とすること許されず、当時は小城だった江戸に追いやられた、と語られていますが上記経緯をみれば造り話なのは明らかでしょう。北条氏滅亡後に江戸を本拠としたのは、この氏政の遺産を有効に活用したと言えるでしょう。家康はこれに限らず、北条家の統治システムをほぼそのまま利用する形で関東の領国統治安定に成功し、後の天下取りで大きな意味を持つことになります。
このように北条氏政はときに相手を変えながら、巧みに外交をこなし勢力拡大に成功させ、行政にも大きな実績を上げたと言えるのではないでしょうか。

 

≪参考文献≫

黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』 宮帯出版社 2015

西股総生『東国武将たちの戦国史』 河出書房新社 2015

峰岸純夫・斎藤慎一編『関東の名城を歩く 南関東編』 吉川弘文館 2011

 

 

 
○アクセス
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JR東海道本線小田原駅から徒歩10分(近世城郭部分)
大堀切までは駅から徒歩20分
・小田原城天守
開館時間 9:00~17:00(時期により延長あり)
休館日   12月第2水曜日、12月31日〜1月1日

入館料   500円

・歴史見聞館
開館時間 9:00~17:00
休館日   12月31日~1月1日
入館料  300円
・常盤木門
開館時間 9:00~17:00
休館日   見聞館と同じ
入館料   200円
※2館共通で600円、3館共通で700円
天守ミュージアムショップに書籍販売あり
 
「小田原城に狼煙が一本・・・」