ここのところ記事執筆が遅くなりまして申し訳ありません。今日明日の回での執筆で若干スローペースになるかと思います。実を言うと今週10日間休暇が降って沸いたように突然出てきた
数日前に何回か申請していた休暇がようやく会社が出してきたんですが、突然すぎてねぇ。もっと事前に分かっていれば、知人の方々と連絡して会う計画も立てられたのに、3日前では流石に無理。というかあと数日早ければお誘いのイベントにも参加できたのに・・・と調子狂うことしきりでした。そんなわけなので今回は一人旅で10日間の休暇の記録を記事にする予定です。その前に今回と次回は先月の姫路城見学とセットで訪問した兵庫県からお送りします。なお明日の記事UPは14日早朝予定です
○阪神間市街地に残る貴重な城郭遺構
大阪・神戸の間は今となっては市街地化が進み、この辺にあった城跡は殆どがその開発の波に乗っていきました。その中で住宅街の一角に残存した土塁遺構の残る城・尼崎市の富松城を訪問して参りました。
地名としての富松が登場するのは正平17年(1362)である。この時、南朝方の軍勢が富松をを攻め込んだと『太平記』にあります。一方、富松城が史料に登場するのは長享元年(1487)のことです。享禄3年(1530)8月27日には細川高国が神呪寺に陣取って細川晴元と対陣し、晴元側の薬師寺三郎左衛門が城主として在城しました。9月21日には、高国方によって富松城は落城して、24人が討死。さらに10月19日にも富松南にて合戦が行われています。天文10年(1541)には河原林対馬守が日富松に籠城して、更に東富松が登場しています。更に翌19年には三好長慶が伊丹城攻めの足掛かりとして富松に着陣しています。このように富松城は摂津西部の拠点として争奪の場所となりました。
周辺は住宅や商店などの一角に城跡がありました。
そして木柵の向こうには土塁遺構が長さ50メートル、高さ4メートルほどで昔から「城山」と呼ばれていました。
南側の駐車場側からは土塁が明瞭です。
さて訪問してはじめて気づいたのですが、富松城跡は金属フェンスで全周囲まれています。
つまり中に入れない
中には入れないのです。
それこそこれぐらい徹底しないとこの一角が保存することもままならなかった可能性がありましたので、やむを得ませんがやはり残念な気が・・・・
住宅塀の外は窪みが恐らくは堀の跡でしょう。
かつてこの城山の向かいにも「北方土壇」と呼ばれていた遺構が昭和50年代までありましたが、現在はわずかに稲荷社の土台部分としてわずかに残るのみです。富松城神社境内にも小規模な土塁が昭和20年代まで遺されていましたが、いずれも住宅街開発の波に消えていきました。
仁木宏・福島克彦(編)『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』吉川弘文館 2015