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○島津一門の居城
戦国時代の天文23年(1554)に岩剣合戦と呼ばれる合戦で島津義弘は初陣を飾りました。この戦いで勝利した義弘は岩剣城に在番することになりましたが、この城はその名の通り岩山の頂上で、山麓からの行き来に非常に不便であり、麓の平野部に新たに館を築きました。これが現在の平松城です。義弘は慶長5年(1600)の関ケ原合戦直後にもこの城に入り、慶長10年(1605)から翌年にかけても居館としました。その後は義弘夫人や娘も翌年を過ごしました。その後、一旦廃城となりますが江戸時代中期に藩主島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家である越前島津家を再興させ、以降平松城はこの島津一門の居館押して明治維新まで越前(重富)島津家の町として栄えました。
 
○案内板で偶然目にする

鹿児島から日豊本線で向かう途中での錦江湾と桜島の光景です。

途中で見た重富駅の案内板に丁度この平松城があり、時間的にも丁度空いていたことから行くことにしました。

重富駅にて下車します。

20分ほど歩くとかつての街並みにあわせるかのように石垣で囲まれた一帯を目にしました。

石垣とアスファルト舗装道路、なかなか目にしない光景だと思いませんか?

現在では平松城は重富小学校となっており、当然のことながら敷地内には入れず。一応このあたりが城門前の馬場となっていました。

それでも土台部分の石垣はかつての面影を残しています。

この平松城跡の標柱がかつての城跡であったことがわかる数少ない名残なのです。さてここからすぐ近くの山に岩剣城の山が見えます。

見た目通りの険しい山です。これは島津義弘も敬遠したのも宜なるかな。

さてそれではここから肥薩線紀行へ入ります。

 

○肥薩線紀行①

 

肥薩線は熊本県八代と鹿児島県隼人を結ぶ全長142.2キロの路線で、かつては博多・熊本~鹿児島方面を結ぶ鹿児島本線とし建設されました。海岸沿いに現在の鹿児島本線(一部肥薩おれんじ鉄道)が開業するまではこの路線が鹿児島の主要幹線であったのです。本も元建設計画の際に、距離は短いものの急こう配の多い人吉経由と距離は長いが勾配の少ない水俣経由のどちらにするかが議論され、海沿いでは敵からの艦砲射撃に弱いという軍部の意見や、宮崎との連絡(吉都線)を重視して、このルートが選ばれました。現在では古い時代の駅舎やスイッチバックに二大車窓といった古い時代の路線を観光資源として活かす方向で脚光を浴びています。既にかつての都市間連絡機能は失われており、この観光路線として生き残りがこのローカル線の生命線となっています。しかしここも来月のダイヤ改正でかなりの厳しい減便となっています。果たして・・・

途中にある嘉例川駅

1903年の開業当時の木造駅舎がそのまま残っている鹿児島県最古の駅舎です。現在では地元自治体管理となっており、特急はやとの風も5分程停車して乗客が見学する時間が設けられているなど観光の目玉になっています。休日には地元の方による駅弁販売(予約制)もされています。

古い駅舎も地元の方々がきれいに整備されており、かつての面影をしのばせてくれます。

列車でそのまま進み・・・・

嘉例川駅と並ぶ最古の駅舎・大隅横川駅に下車しました。

この駅の木柱には太平洋戦争時に米軍の機銃掃射による弾痕が今も残っています。

ここから肥薩線を走る観光特急「はやとの風」に乗車。九州新幹線開業時に鹿児島中央~隼人~吉松を結ぶ観光特急元々は普通列車のキハ140系を

中身を木材を多用するなど大きくリニューアルされています。客室乗務員による沿線風景の案内もある観光列車で、乗車時も結構な人数が利用していたのですが、この列車もダイヤ改正後は土休日などの多客期のみの運転となる予定です。

終点の吉松駅。普段は閑散としていますが、この観光列車運行時には乗り換え客でごった返しします。

吉松駅は吉都線との乗換駅。鉄道運行の要衝の町でかつての鹿児島本線時代には最盛期には600人もの鉄道職員が暮らす「鉄道の町」として栄えていました。

駅のすぐ近くにはSLが展示されていました。

石倉(燃料庫)、古い時代に使われ、現在では近代産業遺産として保存されています。

鉄道資料館

駅舎内にある待合室には畳が敷かれていました。

ここから先はまた明日!

 

○アクセス

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JR日豊本線重富駅から徒歩25分

 

「平松城に狼煙が一本・・・」