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連絡事項ですが、明日明後日2日間九州へ行って参ります。これに伴い、次の記事更新は木曜日になる予定です。さてそれでは「2月」「九州」で思い出す城がありました。

 

○博多を見下ろす要衝

九州の玄関口である福岡、そこは古より九州防衛の最前線であり、古来よりそこを防衛する為に多様な城塞が築かれました。戦国時代において一番の要衝とされたのが立花山城でそれは位置的には海陸交通の要衝に陣取り、何よりも巨大貿易港・博多を見下ろすまさに

「ここを制するものが博多を制する」と言っても過言ではない存在でした。そして立花というその地名から想像されるとおり、かの名将・立花宗茂を世に送り出したのもこの山城でした。

 戦国時代、この立花山城は大陸との交易を制するため、大内氏・毛利氏・大友氏・島津氏といった西日本の大大名が熾烈な争奪戦を繰り広げました。最初は大内氏が掌握していたこの城を大友氏が掌握して、一門である立花家を送り込みます。しかし大内が滅び、新たに毛利の攻勢が始まると、永禄11年(1568)城主・立花鑑載が大友に反旗を翻し毛利氏に通ずると、大友宗麟は戸次鑑連を総大将とする3万5千人の大軍を送り込み、陥落させました。この後入城した戸次鑑連が立花氏を名乗り、後に剃髪して道雪と称しました。大友を支えた名将・立花道雪の誕生です。そして彼には「相棒」ともいうべき存在であったのが高橋紹運で、この2人が「双璧」となってこの地域を掌握してまいりました。道雪には男子が無く、その跡を継いだのが九州のまごうかたなき「女城主」である立花誾千代、そしてその婿として立花の名跡を継いだのが高橋紹運の息子である統虎―後の立花宗茂でした。(なお宗茂は何度も改名しているのですが、ここでは宗茂で統一)

彼と立花山城にとって最大の試練は天正15年(1857)のこと。主家である大友家は大友版・アムリッツァ星域会戦ともいうべき耳川の大敗で、一挙に弱体化、島津はそのまま九州全域を統一せんとする勢いで凄まじい勢力拡大を続けました。この状況に大友宗麟は関白・豊臣秀吉に救援を要請しており、その遠征軍が迫っておりました。しかしこの頃既に宗麟は本国・豊後でさえ危機に瀕する程の状況であり、筑後の防衛はひとえに立花・高橋両家に掛かっていました。

○名将&堅城VS薩摩隼人

遂に筑後まで押し寄せた島津勢はまず宗茂の実父・高橋紹運の岩屋城を攻囲します。島津軍は4万、一方の岩屋城は7百と勝敗は明らかでした。結局岩屋城は城兵の玉砕で陥落、遂に立花山城に迫ります。ここが陥落すれば博多を掌中に収めたも同然。島津の九州支配を許すかどうかは立花山城に掛かっていました。宗茂はこの堅城に篭り、一歩も島津軍を寄せ付けませんでした。そして相次ぐ連戦、なかんづく岩屋城での壮絶な抵抗で消耗しきっていた島津は遂に攻勢限界点に到達、撤退を開始しました。このとき宗茂は追撃の兵を出して島津軍に打撃を与えています。この戦いで宗茂の将才を世に轟かせ、関白・秀吉は彼を大友家臣の身分から独立大名に取り立てることになりました。そして以後も宗茂は「唐入り」「関が原戦役」(本戦には間に合いませんでしたが)「大坂の陣」「島原の乱」とこの時代の主要な戦役全てに従軍して、その将才を発揮し続けることになります。

 さて立花山城ですが秀吉による九州平定後に新たに筑前に入封した小早川隆景が入城、このときに城の改修を施しましたが、やがて沿岸部の名島城に本拠地を移した為、まもなく廃城となったと伝えられています。そして立花山は地元のハイキングコースとして、四季を通じて一年中に多くの訪問者が来る賑わいの山となっていました。

 

○これぞ立花道雪の城

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立花山城については福岡市街からかなり離れているので、アクセス方法を探すのには苦労しました。まずは博多駅からJR鹿児島本線に乗車します。

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数駅先の福工大前駅で下車

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ここからは新宮町コミュニティバス「山ライズ」(サンライズとはなかなかのネーミングですね)線に乗車して佐屋方面へ。

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同バスは1乗車運賃定額100円というありがたい存在です。1時間に1本走っていたので、時間さえ気をつければ立花山まで行くのにはそんなに苦労しないで済みそう。

「立花小前」にて下車。ひっきりなしに車両が行き交う光景しかありません。「立花山登山口」まではまだ少し歩かないといけません。

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10分程すると「立花山」への案内板と「立花夫婦を大河ドラマに」という旗が。もっとも九州の大名ってなかなか大河ドラマでは取り上げられないのですね。一つには「文禄・慶長の役」という一大タブーがあり、九州(や中国・四国方面)の大名を主役にするとどうしてもこの描写を避けて通れない。そして現在のわが国では如何に描こうともバッシングやブーイングを浴びること必至なので。そういう「臭いものに蓋」の精神は本当になんとかならんか、と思っています。それと誾千代と宗茂の関係もまたぞろ「恋愛」ものになりそうな気がしてしまう。

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登ること更に10分、登山口に到着しました・・・・

が、「白いモノ」が積もっているじゃありませんか!!完全に計算外。一瞬「中止」の選択肢が頭をよぎりましたが、流石にここまで来てそれはない。

「やってみるさ!!」

ということで登山開始。(なお登山口にある丸太小屋に立花山に関するパンフレットがあります。(注:城に関する記述は少しだけ)登るにあたり必ず取っておきましょう)

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幸いまだ道は判別可能でそんなに積もっているわけではありませんでしたが、それでも滑りやすい。これぞで道雪てか、なんて下らない想像をしながら慎重に進みます。

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登山道と城跡見学コースの分かれ道です。それにしてもこの辺り積雪の量が半端無いですが、果たして頂上は大丈夫なのか不安になります。

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険しい道を登ること20分程、明らかに石垣らしき姿が見えてまいりました。足早に進みます。

立花山城の最大の見所の一つ①

立花山と松尾山との連峰部にある石垣

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立花宗茂の時代から残存する遺構です。

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さてここから更に登っていくと丁度再び石垣らしき姿が見えてまいりました。

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こちらは小早川隆景時代の石垣

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本丸に近づくにつれて雪が無くなっていき、代わって石垣があちこちに見えてくるようになってきました。

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急斜面の上に木々の無い開けた空間が見えてまいりました。あれこそが立花山の頂点

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山頂部の主郭跡

多少雪が残っていますが、あとはきれいなものです。あれほどの急斜面を登っていったのですが、山頂部は意外に広いことに驚かされます。

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そして見てください。

立花山城の最大の見所②

である福岡市街一円の光景を。なるほどここなら九州最大の都市を一望でき、掌握するために大名が攻防を繰り返したまさに軍事上の要衝であることが一目瞭然でした。

この立花山自体もその眺望から絶好のハイキングスポットとなっており、この日も雪が積もっているにも関わらず、多くの人が訪れていました。いずれも登山の服装であるのに対して、一人だけラフな私服姿で浮いている男が一人・・・・

ハイ、私のことです。(苦笑)

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一服した後、再び城跡の遺構散策に向います。

imageimage本来の立花山登山コースに戻り、屏風岩

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この辺りは一番雪が積もっているエリアでした。そして分岐している小道を行くと

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古井戸

底を覗くと残念ながら水はありませんでしたが、柄杓が置かれているのを見るとまだ水が出るのでしょう。

 

さて立花山城ですが、実はこれまでみてきた部分はほんの一部分にすぎません。実際の城跡は複数の峰に点在する実に広大な城なのです。最も流石に一回でこれを全域廻るのは不可能であり、今回は主郭である井楼山、そしてあの石垣がある松尾山の鞍部~松尾山までにとどめることにしました。

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松尾山頂上部

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こうして往復2時間以上かけてようやく立花山城の(メイン部分)散策は終わりました。それにしてもこうして実感したのは

薩摩隼人を相手に正面から野戦を挑むのはやはり愚の骨頂。堅城に篭り、相手が疲労の限界に達した所を逆撃する

のが戦国~明治にかけてどんなに時代が変わろうと不変の法則であるのだぁという結論でした。

 

○アクセス

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JR鹿児島本線福工大前駅から新宮町コミュニティバス「山ライズ線・佐屋」行きで15分(100円)「立花小前」下車徒歩20分で登山口

本丸(山頂部)まで徒歩40分

 

「立花山城に狼煙が一本・・・」