○島津の港湾都市
志布志城のある志布志市は島津氏の外界との窓口として交易で栄えました。そして現在でもフェリーや貨物船の入港する鹿児島県有数の港湾として玄関口となっています。そこに築かれていたのが志布志城でした。
志布志城は中世の山城で、その歴史は古く南北朝時代からその存在が確認されています。当初は地元の国衆・肝付氏でしたが、南北朝の抗争の中で頻繁に城主は入れ替わり、その後は新納氏(島津氏分家)・豊州島津氏と変わり、やがて肝付氏は日向伊東氏と協力して島津氏と対抗しますが、服従。天正5年日向・大隅を平定して大大名に成長した島津の直轄領となりました。かように頻繁に入れ替わった歴史を反映してか、現在「志布志城」と呼ばれる城址は内城・松尾城・高城・新城の4つの城が現在の志布志にあります。
○穿つような空堀
志布志に到着したのは前夜のこと、宮崎までLCCを利用して到着しました。最も当日の天候は大雨ときたもんだ。果たして明日どうなることか不安になります。志布志駅前の旅館で宿泊します。久しぶりの宿屋宿泊。
もっとも深夜は更に雨足が強くなっており、絶望的状況に近いものです。
志布志市街は碁盤目状に綺麗なものでまた各所に↑の案内板があるので迷う心配はありません。
朝6:40、ようやく夜明けとなる時間に志布志城・内城の登り口に到達しました。現在では志布志小学校の裏手にあります。
通常、志布志城といえばこの内城を指します。
入口にある縄張り図 また内城内には↑のような案内板があります。
志布志城入口
入口付近には廃墟となった民家が朽ちるに任せている状態でした。入口付近には「志布志城縄張り図」と書かれたポストが
ありましたが、もぬけの空でした。
歩くこと10分ほどで内城の本丸下部分に到達しました。意外と入口から近い。
本丸上段 最上部には祠が祀られていました。
本丸部分は非常に綺麗に整備されていました。真夏だとこうはいかないので廃城訪問はやはり冬から春にかけてが最適です。
志布志城内は空堀がそのまま城内の通路となっています。それにしても凄い草薮です。特に裏手は酷く前夜の雨も加わって足がびしょびしょになります。
志布志城は志布志湾に面したシラス台地の先端部を利用した城です。浸食谷をそのまま急崖をなして複雑に入り組んでいます。この形式は南九州型の城の典型的な形式です。
一番高所に位置する大野久尾
但し、ご覧の通りここも草薮がひどく周辺部散策はできず、残念・・・
続けて中野久尾に入ります。ここは虎口の形状を綺麗に残していました。
曲輪内もきれいな土塁の形状を残しています。
本丸周囲の空堀
まさに大地を抉り取ったような急崖でその高さにも圧倒されます。
中野久尾・下段の曲輪はこれはもう散策不可能・・・
内城内は綺麗に整備された区画と草薮の酷い曲輪が混在しています。
続けて向かい側の志布志城・松尾城へと向かいました。
こちらは内城以上に悪路でこれは登るのがシンドイ。
松尾城・中心部
もっとも内城に比べると簡単な居館のような感じですね。
志布志内城と松尾城それらが志布志の街並みを守るように背後に聳えていました。
帰り道で丁度学校へ登校する生徒さんと保安員の方が安全誘導していました。それにしてもここの方、非常に声が朗々としていてなかなかの気合いが入っています。
志布志城復元想像図
○日南線紀行
かつて国鉄時代には志布志は北への都城へと結ぶ志布志線、そして鹿児島県国分へとつなぐ大隅線そして南宮崎へと結ぶ日南線の3路線が交わるターミナル駅でした。しかし2路線が廃止となり、現在では日南線のみとなっています。
現在の志布志駅
なお駅舎内には観光案内所が入っており、またレンタサイクルのサービスもやっています。
かつてのターミナル駅も現在では数時間に1本、列車が来るのみです。そして今回ここも列車の本数も減便され、今後どうなるのか・・・
福島高松駅
日南線は海岸に沿って走ります。
それにしても前日の雨がウソのような見事な晴れです。
南国らしい植物
南宮崎駅に到着。ここから西へ向かいます。