○5層の天守が聳えた山陰の名城
米子市は山陰のほぼ中央部に位置しており、本来その位置からすれば山陰の中心となってもおかしくない筈でした。明治の廃藩置県後の整理・統合されて現在の枠組みに近い形ができた時、(現在の)鳥取県は島根県に含まれていました。しかし原型の藩で言うと、鳥取藩は32万石、松江藩は19万石。しかも戊辰戦争では鳥取は新政府寄り、松江は幕府寄りでしたので、形の上で鳥取が島根(松江)に吸収されたのは県民感情から納得しがたく、独立運動がおこり、結局1887年に鳥取と島根は分離することになりました。もし両県一帯になっていたら、位置的には米子が県庁所在地となっていたかもしれません。
米子城の立地は、中海の東端に面した小山という城山で、東には二の側が流れる山陰でも理想的な地形でした。戦国時代、山陰の中心であったのは尼子氏の本拠地・月山富田城でしたが、毛利氏時代に山陰方面を統括する立場にあった吉川広家は、この米子の地を本拠地にしようと築城工事を開始しました。しかし関ヶ原の戦いで岩国に移封となり、駿河から中村一氏が入りました。築城工事は継続され、かくして4層5階の天守が完成しました。その天守の脇には4層4階の小天守がありましたが、これは吉川氏時代の天守が転用された、と伝えられています。
やがて中村氏は無嗣断絶となり、加藤氏(後の大洲藩)を経て、鳥取藩(池田氏)の藩領として、家老の荒尾氏が城代となって存続しました。(鳥取藩は因幡・伯耆の二か国なので存城となれたのです)、その結果は鳥取と米子の関係は江戸と大坂に近いもので鳥取が政治の中心なら、米子は経済的な中心となりました。明治維新後、城は町に払い下げられ、解体される運命となりました。もし建物が保存されていたら、山陰一の名城となれるに充分な存在と言えただけに残念でなりません。
○夜明けの曙光に照らされる壮麗な石垣
米子へは関西から夜行バスで訪問してきました。もっとも大阪と米子ではそんなに距離ではありませんでしたので、米子駅に着いたのは
4:50
のことでした。
まだ闇の帳が下りたままでしたので、明けるまで駅舎内で時間潰しをして明け方になるのを待ちます。
駅から歩くこと25分ほどで麓の枡形虎口に到着しました。
外側はアスファルトで舗装された市街地になりますが、この枡形虎口に入ると一気に城の世界に入ります。
旧小原家長屋門
城下町に有った小原家の長屋門を移築したのものです。
ここからもう一回枡形虎口全景をUP
ここは有事の際には城兵の集結地点でした。
山頂の本丸までは15分
幾段にも折り重なるように築き上げられた石垣が見事なものです。
鉄御門跡
虎口跡
天守台
この城の一番の魅力は何と言っても
360度全景パノラマで周囲の景色を眺められるということでしょう。やっぱり城というのはこうでなくてはいけません。
水手御門跡
かつてはここに5階の天守と4階の小天守が聳えていました。(写真は復元想像図)
もしこれが現存していたら・・・と思わないでもありません。
○アクセス
JR山陰本線米子駅から徒歩30分
駅舎内観光案内所にてパンフレット配布有
「米子城に狼煙が一本・・・」

















