〇270もの曲輪が残る広大な山城

吉田郡山城は毛利元就のかつての居城であり、安芸北部にある江の川沿いいに開けた毛利氏の本拠地・吉田の小盆地にあります。かつてはここが中国地方の中心であったために極めて広大な城であり、麓からの高さは約190メートル、東西1.3キロ、南北1キロに及ぶ郡山の山中全域を城塞として、約270もの曲輪が造成されている広大な山城でした。もちろん、元就の代にまではここは安芸の一国人領主の城であったにすぎませんでしたが、いずれにせよここから中国地方の覇者・毛利氏は飛躍したのでしょう。今回は久しぶりのシリーズ企画の毛利氏城郭シリーズを紹介しましょう。吉田郡山城はかなり初期の頃に訪れており、かなり写真の量が少ないのが残念でした。

郡山城に関しては子孫が大名として存続したために、当家に多数の史料が遺されており、かなり全貌を掴める貴重な城跡でもあります。

広島県からJR芸備線でまず吉田口駅まで(なお2019年現在は豪雨災害により路線は不通)向かいました。

吉田口駅からは備北交通バスで吉田営業所行バスに乗車して向かいます。ただこの路線バス、本数が少ないので朝一に広島を出なくてはいけません。

安芸高田市役所にてバスを降りてまずは

歴史民俗資料館から歩いていくこと15分で登城口に到着しました。

まずは毛利氏墓所が木陰に隠れて静かな雰囲気を出していました。

一番上にあるのは毛利元就墓所

「百万一心」の石碑

元就が吉田郡山城の普請工事の時に人柱の代わりに使用された石碑に描かれた言葉です。

古井戸跡

途中にて小学生が多く歩き回っていました。こうして近くに山城がある学校と言うのは羨ましいかぎりです。

二の丸跡

本丸跡

本丸北端の一部が一段と高くなっており、礎石の跡が確認できます。

三の丸跡

厩の段跡

破却された三の丸石垣跡

安芸高田市街

吉田郡山城図

ご覧の通り、かなり広い上位機であり、ここまで回ってきたのは毛利氏が中国地方の覇者となった時代のもの、かつて元就以前の小領主であった頃の城は「旧本城」と表記されています。この時は夏の暑さで全部が回れなかったのは悔しい限りでした。

安芸高田市役所までもどったのですが、吉田口駅までのバスが当分ないということで途方に暮れたのですが、「可部」行を発見、こちらは安芸高田からのメインの幹線であるためかバスの本数は非常に多めです。

JR可部駅に到着、最初からこっちに行った方が良かったか。

可部線は当時、ここが終着駅でした。かつては三段峡までの長大なローカル線だったのですが、2000年代に廃線となり、可部までが広島近郊の通勤路線として存続したのでした。そして近年、あき亀山までの廃線からの復活を成し遂げたのでした。この頃はそれもいつのころになるか分からなかったのですが。

 

〇毛利氏発祥の地として

毛利氏は鎌倉幕府草創期の重臣・大江広元の四男・季光が、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を本拠として毛利氏を称したことに始まります。安芸国吉田荘地頭職は季光が承久の乱の勲功として恩賞として与えられました。その後、南北朝時代には当地にて定着し、以降毛利氏は室町時代を通じて所領を拡大し、周辺の中小国人や土豪を家臣化して戦国時代初期までには有力国人領主にまで成長します。やがて毛利元就の代には天文10年(1541)郡山城を包囲した尼子の大軍を撃退して、一躍武名を高めて二男元春を吉川家に、三男隆景を小早川家を相続させて更に勢力拡大し、やがて大内・尼子を滅ぼして中国地方の覇者の戦国大名にまで成長しました。

 一般に戦国時代の山城というのは山上の城部分は戦闘に際して籠城するためのもので日常の生活は山麓の居館部分にある場合が多いのですが、郡山城では元就・隆元親子も「城」=山上部分に居住していたなど特異な城であったようです。城=山上部分には家臣達もそれぞれ郭に配置しており、家臣達も「在城」を義務付けられるなど日常的にこの山城が生活居住空間として機能していたようです。天正12年(1584)春ごろ、孫の輝元の代には郡山城を大規模に修築して城下町の整備を進めました。そして天正19年(1591)に輝元は新たな本拠地として広島城へと遷座。まもなく吉田郡山城も廃城となり、今では元就らが眠る墓所と広大な山城が残ります。

 

〇アクセス

JR芸備線吉田口駅から備北交通バスから「吉田営業所」行で約15分360円「安芸高田市役所」バス停下車徒歩15分で登城口、登城口から徒歩30分で本丸

・安芸高田歴史民俗資料館

開館時間 9:00~17:00

入館料  150円

休館日  毎週月曜日(月曜が祝日の場合、翌日)、祝休日の翌日、12月29日〜1月3日

 

 

「吉田郡山城に狼煙が一本・・・」