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〇山家三方衆の城

奥三河地域には山家三方衆と呼ばれる国衆が元来この地域一帯を支配していました。長篠菅沼氏、作手奥平氏、そして田峯菅沼氏の3氏です。このうち、田峯に拠る菅沼氏が築いたのが田峯城で、その歴史は古く文明2年(1470)に菅沼定信によって築かれたといわれています。定信から4代後の城主・定忠は武田の勢力進出とともに服属。その後、長篠合戦にも従軍しましたが、周知のとおりこの戦いは武田軍の大敗で終結。撤退した武田四郎勝頼と定忠はこの田峯城に一旦入城しようとしました。しかし、留守を任されていた城代・今泉道善の裏切りにより、入城を果たすことができず、やむなく四郎らは北上して、武節城(豊田市)まで行き、ようやく休息するに至りました。翌年定忠は田峯城を強襲して城内の人間をことごとく惨殺、裏切りの張本人である道善を処刑して鬱憤を晴らしたと伝わります。

 その後には田峯城は定忠の甥である定利が入城、天正18年(1590)には吉田城主・池田輝政の家臣・戸井弥八郎が入城した、との記録を最後にその歴史に幕を閉じました。廃城時期は定かではありません。

 

〇現在の建物は・・・

 

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飯田線で本長篠駅下車
ここかは豊鉄バスで30分程の山間部に向かうのですが、結構な運賃で往復すると1380円になります。
「田峯」バス停を下車するのですが、肝心の城跡が何処へ行けばいいのか分からない。近くの郵便局でようやく場所が判明した次第。
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登り坂を登っていきこと30分
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ようやく田峯城到達
木橋と柵が戦国時代の城郭の雰囲気を醸し出してくれます。
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縄張り図(現地案内板より)
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現在は茶畑になっている表曲輪
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この上が本丸です。
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搦め手門











本丸には木造建築の御殿と物見櫓が立っていますが、実はネタバラシしてしまうと
本来の田峯城の建物とは何の関係もありません。

『匠明』に記された「武家造主殿之図」を元に建てられたのでまるきりの荒唐無稽な建物ではありませんが、まあ同時代の主殿建物がいかなる存在かを知る上では有意義と言えるでしょう。
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物見櫓
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ちなみに建物内部は展示施設兼会館になっていますので、有料です。
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恐らくは能舞台を再現したもの
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大手門
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物見櫓からみた建物
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下は急な斜面になっています。
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この下は豊川の河流で、武田四郎勝頼は長篠の敗戦後に敗走したルートです。

周囲は長閑な農村そのものでそれがかつての光景に実に近いものがあるように感じられました。こうしてみるとこの城の建物も実に良く雰囲気出しているものです。かつての惨劇の舞台であったことなど嘘のように平和な中で城を堪能できました。





















〇アクセス

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JR飯田線本長篠駅から豊鉄バス田口行きで
「田峯」(690円、28分)下車徒歩30分
「歴史の里・田峯城」
開館時間  9:00〜17:00
入館料      210円

関連資料  城郭に関するリーフレット販売
 
「田峯城に狼煙が一本・・・」