○絵にかいたような落城劇
歴史上もっとも有名な「山城」でよくドラマでも描かれやすい「城」と言えば、浅井氏の本拠地・小谷城ではないでしょうか。小説やドラマ、ゲームなどの創作系でもしばしば登場する。これは浅井長政とお市という二人の美男・美女とその子供である浅井三姉妹の影響が実に強いものと思います。有体に言えば
実に絵になりやすい
構図が受けているのではないかと。大河ドラマでもしばしば登場しており、それこそどれが一番代表的にあげられるかと言うとなかなか上げづらい。(往古の作品は見れていないので)もっとも最近は元亀年間の争乱がメインの作品がないのでしばらくは見れていないのが残念な限り。最後に描かれたのが
2011年の・・・・11年の・・・
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何て作品だったっけ?
まあいいやタイトルも思い出せないような作品というのはその程度の作品ということでしょう。最もそんな作品が小谷城落城の掉尾を飾るというのはそれはそれで嫌な話です。織豊系はもう金太郎飴になりがちなんですが、どこかで上書きしてほしいものですね。
とはいうものの史実の浅井長政という人物というのは後世の虚像が強すぎて、どうにもその実像はというと掴みにくい。父親の久政との関係にしてもかつては六角との融和に固執する父親の実権をクーデターで奪って戦争へと動いたバリバリの強硬派かと思えば、信長に対しては融和的であるにも関わらず、いつの間に力関係が入れ替わったんだ?というくらい弱いという存在感が薄い。この辺の実像を掴むのが石田治部よりも至難の業なんですね。少なくとも治部の方は史実でも非常に個性的な人間なんで。
○浅井氏三代の本拠地
小谷城の史料の初見は大永5年(1525)で在地の国人・浅井亮政によって築かれたとみられます。近江は南部を六角が、北部を京極氏で守護職を担っていましたが、亮政は、小谷城を本拠に京極氏の存在を尊重しながら、子の久政、孫の長政と3代続きました。
大永5年には六角氏が湖北に深く侵入され、一時は亮政も京極高清も国外へ逃亡しますが翌年に復帰。その後も幾度も合戦を繰り広げながら、越前の朝倉氏などの支援を受けつつ、一方で天文3年には小谷城清水谷の館で主君である京極高清を饗応してその力を内外に誇示するなど江北支配を固めていきました。その過程で小谷城も江北の中心地として整備されていきました。
息子の久政の代になると六角との融和路線をとりますが、これに不満を抱いた強硬派の家臣団とそれに担がれた孫の長政がクーデターを起こして、織田信長と同盟を結び六角への攻勢をかけ、湖東・湖西まで版図を拡大しました。
しかし元亀元年(1570)信長の朝倉氏討伐中に反旗を翻し、同年6月には姉川合戦(徳川方の呼称、浅井・織田側での史料では「野村合戦」)で敗北した浅井勢は以後3年に及ぶ籠城戦に入ります。その後も朝倉氏や六角氏などの反信長勢力と連携しながら攻勢をかけ(志賀の陣)ますが、いずれも芳しからざる結果しか出せず、徐々に追い詰められていきます。
そして元亀4年の武田信玄の西上作戦が信玄自身の死によって頓挫すると、織田方は一気に攻勢をかけ、7月には小谷城西側にある山本山城が陥落。小谷城へは朝倉氏が援軍を送りますが、
この援軍が浅井・朝倉滅亡のキッカケとなりました。
小谷山の最高峰である大獄山を織田軍が制圧。これによって小谷城への援軍を諦めた朝倉軍は撤退を開始しますが、この時を待っていた織田軍の追撃で壊滅的打撃を受けて敗走。そのままわずか2週間足らずで一国の大名が滅亡するという事態になりました。
越前平定後の8月26日には小谷城への攻勢が再開、27日には木下秀吉が山麓の清水谷から京極丸を落とし、本丸の長政と小丸にいた久政との間を分断。28日には長政は妻お市の方と3人の娘を引き渡した後に自刃して浅井氏は滅亡しました。
その後小谷城は、浅井氏の旧領を任された秀吉が入城して、天正4年(1576)には今浜城(長浜城)に移り、廃城となりました。
○古くから整備された小谷城
現在、日本全国で城に対する関心が高まり、多くの城もしくは城址が遺構の発掘・復元・整備が進められていますが、小谷城は発掘調査が行われたのは昭和45年(1970)からと非常に古く、私も訪れたのはかなり初期の頃でした。
JR北陸本線河毛駅下車。ここは小谷城訪問に際しては絶対に訪れておきたいベース基地。ここでは情報収集やレンタサイクルなどの観光の拠点となっているコミュニティハウスがあります。最も訪問したのは
11月の早朝、なお夜の闇が明けきれぬ時間
でしたので、徒歩での訪問となってしまいました。
東へ進んでいくと徒歩30分ほどで小谷山の麓に到着。ここは365号線の道路沿いでしたので、食堂やコンビニがあるのが有り難い限りでした。
それでは登っていきます。
番所跡
馬洗い池
大広間跡
非常に広い開けた空間でここが長政時代の小谷城の主要部でした。
大量の出土遺物や広大な礎石建物群が確認されており、小谷城が単なる詰めの城ではなく、恒常的な居住空間であったことの証です。l
大広間入口にあたる黒金門
その両脇を石垣で固めていました。
浅井長政が自刃したと伝わる地
小丸跡
山王丸
ここも本丸と並び、巨大な石垣が随所で見学できました。
山王丸の一角には見事な石垣が残っていました。
やがて丁度陽の光が当たるように琵琶湖が見えてきました。
京極丸
ここはその名が示す通り、主筋にあたる京極氏が在住(幽閉とも)していた区画と言われています。
山頂の大獄丸を一望
もともと初代・亮政の代にはあの大獄丸こそが本来の小谷城でした。地形的に言えば、まさに現在の小谷城を見下ろす要衝でした。
清水谷
平時の居館と屋敷地あり、ここに城主浅井氏の屋敷がそして山麓に向けての斜面には家臣の屋敷や寺院、である麓には城下町となる形でした。それにしてもこの構図どこかで見たことあるなと思ったら、
六角氏の観音寺城と全く同じ構図でした。
小谷城戦国歴史資料館
清水谷を下りた麓部分に設けられている資料館でありました模型
小谷城は築城から廃城までの半世紀に拡張や改修、主要部の移転が繰り返され、広い山内には各所に遺構が点在する形で現代にその姿を残しています。3年にわたる元亀騒乱の籠城戦の過程での拠点城郭としての構造と変遷が手に取るようにわかるようになっています。
実を言うと今回は(長政時代の)主要部のみの訪問になりましたが、実を言うと大獄丸や、月初丸、南尾根の山崎丸とまだまだ未踏の領域があります。それらを見て回りたいと思いますが、これを訪問しようとすると丸1日を費やする覚悟が必要なので
まだその用意ができていません。またここも熊の危険リスクが高いので安全には注意して、でもまた訪問したい城です。
これにて近江編は終了します。明日は休止して、明後日から新シリーズへ移行する予定です。ここまでご覧になっていただきありがとうございました。
≪参考文献≫
仁木宏・福島克彦編『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』 吉川弘文館 2015
○アクセス
JR北陸本線河毛駅から徒歩30分で山麓
登城口から本丸まで徒歩45分
・小谷城戦国歴史資料館
開館時間 9:30~17:00(入館16:30迄)
入館料 300円
休館日 毎週火曜日および年末年始(12月28日~1月4日)
資料館にブックレット販売
「小谷城に狼煙が一本・・・」