今回は品川台場にまつわるあるエピソードについてご紹介します。

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大河ドラマ『八重の桜』第3話「蹴散らして前へ」では品川台場(作中では「品川砲台」)が登場します。

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その台場を綾野剛さん演じる会津藩主・松平容保この台場で犠牲になった藩士たちの死を悼むシーンがあります。

「あの折、砲台を守って命を落とした者たちは…誠に哀れであった」

 

品川台場が築かれたのは江戸湾水深5メートルの海を埋め立てて築かれました。元来このあたりは「永代の押し出し」と呼ばれる隅田川河口からの水流が強く、難所であった所を黒船来航という未曽有の出来事に人海戦術で工事を強行して築かれました。だが自然を無視、人為的な理由で強引に築かれたものは天災に余りにも脆い。それは21世紀も19世紀も変わりない。時は安政2年(1855)10月2日夜10時

安政の大地震

が発生。江戸中に大きな被害をもたらしたこの大地震はこの砲台でも大きな被害を与えました。品川台場は11基建設が計画され、完成したのは結局5基のみだったのは先述の通り。完成した台場の担当藩は

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(緑◯が第2)

第1台場 川越藩

第2台場 会津藩

第3台場 忍藩

第5台場 庄内藩

第6台場 松代藩

(第4台場は工事中断)で持ち場を分担することになりました。安政の大地震ではどの台場も大砲は全て砲座から転がり落ち、地面が割れて水が噴き出す等の被害を被りました。その中でも最大の被害を受けたのが第2台場の会津藩でした。

 

地震が発生した当初、地面が激動したかと思うと、突然天井がメリメリと破れて、駐屯していた藩士たちは真っ暗な中で

「異国船の砲撃か!!」

と思い込みました。屯所の板壁が内側に倒れて、その上に屋根が折り重なり出入り口が塞がれたために屯所にいた藩士たちは閉じ込められてしまいました。そこへ内部で火災が発生。建物内部からは助けを求める声で阿鼻叫喚の地獄へと変わりました。

外にいた藩士たちは必死に救出を図りますが、屋根を壊さなければ無理。しかし屋根を壊してしまうと火が更に強くなる。砲台なので火薬庫には4トンもの火薬がありました。万が一それらに引火したら

お台場一円が吹き飛ぶ事態

となります。結局見殺しにするしかないとの非情の決断が下されました。

 第2台場から436メートル離れた第6台場の松代藩士達もこの緊急事態に生きた心地がしませんでした。もし先の事態になれば、自分達も落命すること必至、誰もが固唾を飲んで見守っていました。無論各藩からは消火の協力が申し出られましたが、会津藩は断固拒否。

「火事など起きてはおらぬ。御手出し無用」

とまで言い切る程でした。無論これは藩当局の純粋な面目を守る意味合いがありました。

大火災や地震などの非常事態とは大名にとっては准戦時態勢となります。その時に火災を発生させ、ましてや他藩に助力を頼みこむなど

恥辱以外の何物でもありませんでした。

こうして台場に詰めていた多くの藩士は藩の面目を守ることと引き換えに犠牲となり、江戸屋敷の被害も合わせると犠牲者は

139人(一説には143人)、しかもこの数字はあくまでも幕府への公式届として出された数字であり、実際にはもっと多かっただろうとされています。しかもこの数字だけでも各藩の中でも最大の犠牲者をだすという結果にありました。

 

後から思えば、この安政の大地震における名誉の固守と引き換えに人命損失を顧みない会津藩の姿勢は後の幕末の悲劇への前奏曲であったように思えてなりません。

そして悲劇の舞台となった第2台場は近代の開発の波の中で現在となっては影も形も無くなっています。それにしてもこの悲劇、果たして我々は一概に批判できるのでしょうか。21世紀に生きる我々も似たような光景を見たことがないのでしょうか・・・

 

≪参考文献≫

野口武彦『井伊直弼の首』新潮新書 2008