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○武田城郭の代表は実は徳川のモノ

静岡県の丁度中央、東西を分ける大井川付近にある諏訪原城は城郭ファンの間では有名でした。それは城の構造が
「これこそが武田の城の代表格!」
とまで呼ばれていたのです。
背面と側面を断崖にして、曲輪は扇状に広げ、丸馬出を多用する
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この丸馬出がここ諏訪原城では最も大規模であり、だからこそこの城を有名になったと言えるでしょう。
ところが2004年~2016年にかけての発掘調査の結果、この丸馬田が実は徳川により、構築されたというまさにビックリの結果が発表されました。具体的に言うと、主郭部分は遺構面が二期にわたって検出され、古い層が武田によるもの・新しい層が徳川による改修によるものなのは自明の理です。これに対して、この丸馬出構造が多用された「二ノ曲輪」は一面のみだったのです。それではこの城はどうように使用されたのでしょうか。
 
○武田VS徳川の争奪戦
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天正元年(1573)当主・武田信玄の死去による混乱から立ち直った武田氏は息子の四郎勝頼の下で遠江侵攻の再開を準備します。その一環として駿河・遠江国境を流れる大井川に橋頭堡として重臣・馬場信房に築かせたのが諏訪原城の始まりです。
主要街道・東海道に面し、牧之原台地の先端部分に位置して、また大井川による河川交通(大井川は現在よりも流路がすぐ近くにあった)を利用できる。
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(武田時代の諏訪原城、 歴史群像2017年12月号『遠江諏訪原/牧野城』P21より)
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武田はそれまで遠江侵攻は殆どが北方からのものでしたが、この諏訪原城により東海道を利用して、遠州東部の要衝である掛川城と高天神城が直接攻撃できるようになりました。高天神城落城後もこの城は補給のための基地として利用されました。この城の存在により、四郎は遠江方面に大攻勢をかけることが可能になりました。
 
しかし天正3年長篠の戦いで状況は一変します。同合戦で大敗した武田が弱体化すると、徳川家康は一挙に反転攻勢に出桝ます。7月徳川軍は攻撃を開始、8月まで続いた攻城戦は結局、後詰(援軍)の得られないと見切りをつけた武田軍が自ら火を放つことで放棄され、徳川のものとなりました。この後、諏訪原城は牧野城と改名して、大規模な改修工事を行い、現在の諏訪原城の姿ができました。
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徳川時代の諏訪原城(牧野城)縄張り図
武田による奪回に備え、主郭の外に二の曲輪を築造、更に補給基地としての拠点として大手曲輪と惣曲輪が設けられるなど大規模な防御強化が行われた
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諏訪原城奪取によって、徳川は高天神城の主要補給路を遮断して、更にここから駿河侵攻への扉を開くことになりました。まだ高天神城への連絡は海岸ルートから保たれていたとはいえ、武田はこの後駿河防衛をしながら、高天神城を維持しなければならず、同城は武田にとって危険な突出部と化していきました。高天神城落城の結末はこの諏訪原城を失った時点で決していたかもしれません。これは結果論になりますが、四郎は早い段階で高天神城を放棄したらその後の未来は変わっていたかもしれません。

 

◯雨中の石畳と雄大な三日月堀

先月11月23日、静岡を訪問して参りました。前日、京都から夜行バスで24:50に乗車、浜松駅に到着したのは、それから4時間も経たない

04:45

浜松駅に到着した時はかなりの大雨となっていました。いつもならこの時点で中止していたのですが、今回はある理由から計画中止の選択肢はありませんでした。それでも諏訪原城を選択したのは理由がありまして・・・

①今回朝に時間があったので余った時間で城を訪問したかった

②諏訪原城は(台地上ですが)平城

③そこまでも道が整備されている

という理由から同城を訪問する計画を立てていました。

05:30始発列車に乗り、金谷駅到着

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到着時は降雨もあってか、駅到着時はまだ朝日の光は出ていませんでした。このまま行っても城訪問時は暗闇のままになりそうなので、一旦駅にて待機。15分ほどして出発しました。
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駅からこの「案内板」に従っていけば、迷うことはありません。
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歩いて15分ここからは「旧東海道」に入ります。
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旧東海道石畳部分
江戸時代、幕府が金谷峠のこの先道を旅人が通りやすいよう、近隣住民に山石を敷き並べさせて整備したと言われています。近代に入り、僅か30メートルほどしか残存していませんでしたが、「平成の道普請」で430メートルが古の時代の街道を再現されました。鬱蒼と覆われた山林を牧之原台地まで一直線に進んでいきます。
最もこの山石に苦しめられるとは思わなかったんですけどね・・・
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石畳道を登ると牧之原台地上の空間を広大な茶畑が広がっていました。その車道のすぐわきに「諏訪原城」入口がひっそりとあります。
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城域に入るとすぐそこには雄大な空堀が出迎えてくれます。三日月状のその形は一目して、人工のものであることを雄弁に物語ってくれます。ちょいと雑草で覆われていますが、
大規模なものだと長さ70メートル、幅は15メートル、深さ10メートルを超えます。もし現代でも一度この堀の底に転落してしまえば
自力でのよじ登ることは不可能
と言われています。
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まずは(実は)徳川が築いたされるこの二の曲輪の部分を巡っていきましょう。
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二の曲輪東馬出
諏訪神社
武田による創建当初に建てられた神社がもとになっています。
無論その由来は四郎勝頼の出身である信州諏訪からきています。
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大手曲輪跡
現在では茶畑が広がっています。
大手北外堀
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最近になって続・日本100名城に選出された影響か、知名度が上がり、ようやく案内板もリニューアルされました。
昔ながらの木の案内板、もう読めないぐらいボロボロでしたから・・・
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巨大な丸馬出と言えば、ここ!「中馬出」
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そのそこは「箱堀」と呼ばれる形状で、徳川時代のもの。
(武田の堀は薬研堀と呼ばれるV字状の形)
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二の曲輪との間には深い堀が遮蔽されています。
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北馬出にある薬医門
近年になって木造復元された門で、徳川時代に天正4年に今川氏真が城主となった時に設けられたと言われています。やはり旧国主を迎えるに当たり、格式ある城門が求められたのでしょう。
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北馬出の先端から大井川を臨む
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それでは二の曲輪を巡っていきます。
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ところどころに石が散らばっていますが、形状からすると近代に入って畑として使用されていたことの名残でしょう。
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それでも中央部には明らかな土塁が残存しています。
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本丸(主郭)跡
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「天主台地」
と呼称される高台。無論この城に天守などあろうはずもなく、2層の物見櫓が建っていたと推定されています。
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搦め手口
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ここからは狭い急な坂
ここから大軍で押し寄せるのは不可能であり、攻め手は一旦東海道から牧之原台地まで攻め上がり、西方から攻め込まないといけません。
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JR東海道本線と金谷駅、そして大井川
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城内にあるカンカン井戸
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三の曲輪
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再び外堀の外へ出て・・・
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二の曲輪東馬出
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さーて、広大な城域の散策を1時間かけて終わり、7:55の金谷発沼津行列車に乗車するために駅まで戻ろうとしましたが、ここで
大きな落とし穴が待っていました。
あの石畳の道です。石畳は山石を丸く加工されているので、雨で濡れていたりすると滑りやすいことこの上ない。
「し、しまった~!何故車道から下りなかった!」
普通にまだ土道の方が良かったかも。
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途中にある「すべらず地蔵尊」
いや確かにこれ雨中に来れば御利益あるんじゃね?
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転倒すればケガは必至。とにかく慎重に、慎重に。なんとゆーかバナナの皮だらけの道を進むようなものです。下り坂なんでスピードがつくんで余計に危ない・・・
それでも金谷駅まで無事たどり着きました。ホームから先程の諏訪原城跡を撮影(写真中央部分)
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それにしても雨が止む気配がないのだが、大丈夫だろうか?

と不安になりながら、沼津行列車に乗車。

さー、ウォーミングアップ運動は終わり!!ここから怒涛の1日が始まります。

沼津で果たして見れる光景とは?

 

≪参考文献≫

樋口隆晴「遠江諏訪原城/牧野城」『歴史群像 2017年12月号所収

学研 2017

加藤理文・中井均『静岡の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版 2009

○アクセスimage

JR東海道本線金谷駅から徒歩30分

 

「諏訪原城に狼煙が一本・・・」