まず私事ながら連絡事項があります。
「ツィタデルの狼煙」城郭紹介記事は今回で100城を達成しました。

3月に城郭紹介を開始してから半年。ここまで来れたのもひとえに日頃から閲覧していただいている皆様のおかげです。この場を借りまして篤く御礼申し上げます。今後もどうぞよろしくお願いします。

今回は100城目ということで私の中でも10本の指に入る城

を紹介させていただきます。せっかくなので先に紹介した宇喜多関連にて備中松山城から。

 

○日本三大山城ができるまで

 日本における城の大半は山城です。それは戦国時代に国人たちが各地で争いを繰り広げ、自衛のため、あるいは侵略のために築いたのですが、江戸時代に入ると政庁としての機能を重視され、多くの山城は姿を消していきました。そんな中にあって備中松山城は日本で唯一天守を始め、城の遺構が現存する貴重な城郭です。

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その歴史の始まりは古く鎌倉時代にまで遡り、延応2年(1240)この地を統治する地頭・秋庭重信が出城を築いたのが始まりです。そして戦国時代に三村元親がこの松山全体を城塞化して、『備中兵乱記』に「二十一丸をば、犬の潜るべき様もなく、天は鳥も通わぬに拵すましめ」

これは同城が備中制覇のために何としても必要な存在だったからです。そのため、尼子・毛利・宇喜多・織田といった戦国大名たちの争奪戦が繰り広げられ、やがて三村元親は毛利勢の包囲下で落城、自刃して果てました。その後は毛利の城となり、一度は廃城となりました。

 しかし関ヶ原合戦後に毛利が去ると、備中は徳川の管理下に入り、奉行として小堀政次、政一親子が相次いで入り、現在の城下町や松山城を整備。その後、水谷氏が大名として入り、これが現在の備中松山城を完成させました。相次いで譜代大名が入り、幕末の大名が板倉勝静(松平定信の孫)。彼は老中として徳川慶喜の側近として活躍する一方で、藩においては農民出身の学者・山田方谷を起用。藩政改革を起こして、名君と讃えられました。山田方谷は陽明学者であの長岡藩家老河井継之助の師匠にあたります。そして戊辰戦争の際、主君の勝静が幕府側の要人であったため、松山藩は朝敵として討伐の対象となりましたが、方谷は冷静に時勢を説き、恭順を主導。家老・熊田恰の切腹と引き換えに高梁の城と城下町は戦火の禍から避けられました。この方谷は地元では知る人ぞ知る偉人で今でも大河ドラマの主人公に!という運動もおこっているほどです。

そして現在では日本で唯一の山城の天守がある城として、多くのひとを集めています。
 
○山城最高の「おもてなし」

岡山からJR伯備線で乗ること1時間。備中高梁駅に到着。

ここまでは電車も1時間に2本走っており、訪問するのには便利な土地です。
駅前の観光案内所にてパンフレットと松山城専用クリアファイルを購入。さてここから備中松山城までですが、バスも走っていますが、これも途中の登山口までなので、結局歩くことになります。だから私などはいつも歩いていきます。
駅から眺めた城のある臥牛山
草の上に寝そべる老牛に見立てられ、その名がつけられました。4つの峰である前山、小松山、天神の丸、大松山で最高峰で標高480メートル。
先に上げた小堀正一のちの小堀遠州が築いた城下町の風情をよく残しており、映画のロケなどでもよく使われます。
山麓にある御根小屋と呼ばれた藩主居館部分
藩主らは通常はこの山麓で居住、政務を行っていました。現在は高校の敷地となっていますが、その石垣は健在です。
さてそれでは登城道を登っていきます。
『忠臣蔵』で有名な赤穂藩の大石内蔵助が腰掛けた(伝)「腰掛岩」
最初の松山藩の大名・水谷家が無嗣断絶となった際に、幕府側の名代として訪れ、この時松山藩では藩士らが籠城の上、切腹しようという声まで上がる程緊迫した空気が漂っていました。これを説得して、平穏無事に無血開城に持ち込みました。1年7か月の間、城に在番してこの道をつたって城まで登ったと言われています。そして8年後、今度は彼の赤穂藩が同じ立場に立たされたのです。
30分〜35分ほどでしょうか。8合目のふいご峠駐車場まで到着します。5合目の城見橋駐車場からここまでシャトルバスが休日現在で運行しています。

 ここからは登城道を再度登りますが、ここで

城主からの出迎えの看板

「登城の心得 〜すべし 城主」


による指南?があります。これがなかなかユニークで一つ一つ文章が進路に従って変わってきます。山登りで一番きついのは自分が今どの辺りまで登っているか分からないこと。その点「城主からのお達し?」は非常にありがたい。

やがて上太鼓の丸石垣に到達
ここからの高梁市街の眺めは最高です。そしてここから更に歩くといよいよ・・・
大手門背後の石垣にいやでも注目します。


天然の巨岩と人口の石垣の融合した見事な光景

現在でこそ石垣と土塀のみですが、かつては櫓も建ち並ぶまさに山上に突如出現した近世城郭なのです。ところでこれ何処かで見たことありませんか?
実は大河ドラマ『真田丸』のオープニングに登場していたあの山城なのです。
ただ月日は流れ、この天然巨岩も近年歪みが年々ひどくなってきており、現在では測定器を設置していました。
大手門跡
国重要指定文化財に指定されている三ノ丸土塀
三ノ丸跡
幾段にも折り重なった石垣は見事の一言。
そしていよいよ見えて参りました。本丸と天守がすぐそこに。

 手前に見える櫓が木造復元された五の平櫓と六の平の櫓です。現在では城の入城受付と管理室、展示室になっています。

そしてここには備中宇治茶の冷茶器が備え付けられています。例え真夏だろうとここなら冷たいお茶で癒されます。山城を登りきった時には
どんな名水や名酒だろうと冷えた一杯のお茶に勝るものはなし
まさに山城最高のおもてなしかつてこの天守は廃城後、解体の話は持ち上がりませんでした。山の上なので解体するにも手間がかかるためです。
そのため、天守は朽ちるに任せそのまま推移すれば自然倒壊していく運命にありました。現実にかつては草ぼうぼう、壁や瓦が剥がれ落ちて見るも無残な姿だったそうです。それでも昭和に入り、地元の有志による保存活動が高まり、昭和15年(1940)に解体修理が行われ、現在に至ります。
天守は二層二階で現存最小の天守ですが、近くでみるとどっしりした印象を受けます。地階からの渡り廊下
一階は展示室や
囲炉裏があり、いざとなれば城主一家の食事や暖を取れるようになっていました
武者窓
二階は御社壇と呼ばれる神聖な空間
備中松山藩守護神として10を超える神々が祀られていました。
天守の周りも見事な高石垣です。搦め手門この山はニホンザルの生息地
途中で猿の親子に出くわしました。こういう時は互いに刺激しないよう慎重に距離を取ります。天守と並ぶ現存建物・二十櫓
老朽化著しく中には入れません。

◯ここからが本番だ!!

 さて備中松山城というと大抵はここまでで見学終わりですが、でもまだゴールはそこではない。まだ先があるのです。


実は今まで見てきた近世城郭はあくまでも「小松山城」であり、戦国時代の城郭として「大松山城」がありました。

本丸裏手を進むと橋があり、更に奥地に進めます。先ほどまで人には結構出会いましたが、さすがにここまで行く人間はそういない。
木橋
かつては土橋であり、大松山城への通路にあたります。
「小松山城」までの登り道もかなりきついものでしたが、「大松山城」はその比ではありません。ここを登るときには万全の備えで山登りする必要なあります。
天神の丸

その頂上には天神社壇が設けられ、城の守護神が祀られていました。

 やがて巨大な堀切の底を抜けると

大松山城主郭に到着しました!
現在では城の遺構はあまりなく、僅かに土塁や石積みの残骸、楚石が残るのみです。
主郭から眺めた臥牛山連峰の風景
延々連なる山岳地帯であることが分かります。
城の水を溜める「大池」
石組みの巨大な溜め池でかつては屋根まで設けらていました。


備中松山城はまさに森に囲まれた山上に一角にそびえ立つ城で、特に天守がその山上に現存している貴重な名城です。片道でも一時間以上かかる山登りですが、この天守や櫓、高石垣を見た時には全ての疲れを吹き飛ばす感動がありました。
私もここについては何回行こうが飽きることの無い城です。最後に城を下りる時にあの城主からの看板の裏面には
「ここまでの登城、大義であった」
という労い御言葉を常に訪問者全てにかけてくれます。

○アクセス

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JR伯備線備中高梁駅から徒歩40分でふいご峠登山口

登山口から本丸まで20分
大松山城まで本丸から25分
備中松山城天守
入城時間 9:00~17:30(4~9月)9:00~16:30(10~3月)
休城日  12月29日~1月3日
入城料  300円
入城窓口にて解説本販売
「備中松山城に狼煙が一本・・・」