「砥石城」は越えた。もう遮るものは何も無い。

怒涛の一日の最後の

戦いが始まる。旅の始まりの地、上田。

あと一歩。旅の終焉まであと一歩。

その果てに見たものとはー

14:48

 砥石城での全力疾走の騒動(?)を経て、上田駅へ戻ってきました。思えば上田城は2010年8月に来てから、七年ぶりです。もっとも当時の私は城めぐりはペーペーに等しかったので余り建物と石垣くらいしか見てなかった記憶があります。今回は当時の記憶を交えながら紹介して参ります。

 上田城の歴史についてはそれこそ有名すぎるので簡単に触れておきますが、この城が本来の「城」としての役割を果たしたのは、実はほんの10数年にすぎません。天正11年(1583)に真田昌幸が対上杉の拠点(の名目)で、徳川からの支援により築城され、その後は上杉につくことでまんまと国持ち大名から出資させることでまんまと自身の居城としたのは有名な話。その後2度にわたり徳川の大軍を破り、その名を歴史に刻んだのはもう有名すぎる話。そして慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後に徹底的に破却され、その短い命を終えました。現在存在する上田城は真田信之(お兄ちゃん)が松代転封後に入った仙石氏による再建であり、当然現在残る建物・石垣等は全てこの時の再建と幾度の改修によるものです。最も後述しますが、この時再建された上田城は非常に中途半端で城としては不完全なものであり、結局封権体制下での権威としての象徴としての役割以上のものにはなりませんでした。この城が本来の城としての役割を果たしたのは、事実上真田昌幸一代であり、まさに

昌幸の昌幸による昌幸のための城

であったと言えるでしょう。それでは駅から城へ向かいます。

三の丸跡です。城が破却された後、お兄ちゃんはここに館を構えて、本丸跡には入らず、以後ここが上田を統治する大名の政庁となりました。なお、現在長野県上田高等学校となっており、中に入ることができません。それでも堀や土塁、写真の表門が残っています。(この写真は第一回訪問時のものです)

 

信号を渡るといよいよ二の丸から上田城エリアとなりますが、ここからは昨年訪問された方の記録を参考にさせてもらいました。なお同日記は非常に面白くおすすめです。さて上田城の現在の遺構は江戸時代のものでありますが、基本的に再建された時に埋めた堀を掘りなおす等ほとんど昌幸の頃をそのまま再利用して再建された(『郷土の歴史 上田城』より)ので基本的な縄張りは変わらないものと推定されます。

まずは上田市立博物館で櫓と共通鑑賞券を購入。すでに15:00をまわっており、あと17時までに城内を見て回らないといけません。

次に北東側へ向かいます。

写真上は本丸の北東部分。本来なら「角」にあたる部分が凹んでいます。北東の方角は鬼門除けとして隅欠(すみおとし)とされたためです。写真中央は二の丸部分。現在は埋め立てられてますが、駐車場のあった部分が隅欠となっていました。

そして鬼門除けの為、少し西側にずらして設けられた北虎口。この外は陸上競技場となっていますが、昔は百閒堀でした。

石垣部分は昔橋であった部分であり、写真下は堀の水を排水する

石樋いです。更にぐるっとまわり、

西虎口からいよいよ城内に入ります。時間は16:00過ぎ。

ところでこの辺りからなんか「寒いなー、風邪でもひいたか?」と思っていたのですが、目を下に向けると寒いわけだよ。

砥石城でコートとセーターを脱いだままの恰好だったんだから。

あれから3時間程。逆に言えばあれからずっと体がヒートしたままだったわけであり、どんだけ過熱状態だったんだろう。

本丸西櫓。この西櫓は江戸時代の創建当初から移動も解体もされず、ずっととどまり続けた唯一の建物です。その為か結構な人だかりができており、誰もいない一瞬の状態を待つこと10分程でした。

ここでガイドの人から衝撃的な一言

「西櫓に入場できるか?ああ、あれは去年1年だけだねえ」

ウワァァ━━。゚(゚´Д`゚)゚。━━ン!!

逃した魚は大きかった。何故去年無理してでも行かなかったのか悔やむことしきりです。ところで周囲は家族・カップル・グループ大小さまざまな人の集団であり、単独で行動している私は結構目立つ存在だったようです。4組ほど「写真お願いできますか?」と声かけられました。勿論、快諾してカメラマン役を務めさせていただきました。七年前にはここにここまで人が集まっていた記憶が無く、訪れる人々が上田城に対する関心が強くなった何よりの証です。もう閉館間近でもこれだけの人数まだまだ上田には余熱が十分すぎるほどです。

本丸中心部分。この部分は土塁で囲まれており、堀廻りを一周散策しました。ところでこの本丸部、江戸時代に再建を主導した藩主仙石忠政の死後、工事は中途半端な状態で終わったため未完成のままでした。実は周囲の櫓を除くと、建物は一切なく僅かな番人が詰めるだけで、半分打ち捨てられたような状態と言われています。昌幸の時代には金箔瓦や菊花文軒丸瓦などの安土桃山時代様式の瓦が発掘されており、かなりの豪華な建物があったと伝わりますが、今となってはそれを窺い知ることはできません。

真田井戸と真田神社。井戸は外への抜け穴と伝えられています。ちなみにやはり「落ちない城」ということで受験効果らしいです。

いよいよ南櫓と北櫓に入ります。この2基の櫓は明治期に解体され一時は遊郭となっていましたが、昭和24年に城内へ移築して復元されました。間の東虎口櫓門は平成に古写真をもとに復元整備されたものです。ここの櫓門に設置された火縄銃のレプリカを拝見しようとしたのですが・・・結構待たされました。ここも結構な人だかりでしたからねぇ。ちなみにやはりというべきか銃(レプリカ)を握ってはしゃいでいたのは男性ばかりでした。五分ほどここでも待たされましたよ。

確かに与力さんの日記にある通り、かなり意匠がカッコいい形になっています。

櫓門傍の巨石は通称「真田石」お兄ちゃんが松代移封の時にこの地との別れを惜しんで、持っていこうとして動かせなかったという伝承が残っています。

この後、櫓門の外に出ましたが、大河ドラマ館は既に撤去された後であり、広大な空間がぽっかり空いていました。

ここから下の堀をおりますと

堀の底であり、ここは昔鉄道の線路が敷設されていました。

ここを更に下を降りていくと、いよいよこの上田城を象徴する箇所を

見学にいきます。

この城の南は今でこそ公園になっていますが、当時は千曲川の支流尼ヶ淵と呼ばれていました。城と尼ヶ淵の間の落差は15メートル以上。まさに断崖絶壁であり、上田城の堅固さを示しています。

最もこの崖面は火山噴出物であるため、尼ヶ淵が洪水に曝された時には非常に脆く、城側にとっても(経済的な)脅威だったようです。(『長野の山城ベスト50』「上田城」の項にはこの城を「諸刃の剣」(!)と表現している)現在石垣が築かれていますが、これは江戸時代に幾度にわたり護岸の為の改修工事の結果です。享保十七年(1732)には千曲川の大洪水で崖下部分が大きく崩壊したそうです)よく見ると箇所毎に石垣の状態や地盤が露出している箇所があり、幾度も改修されています。

昌幸は関ヶ原での負け組となりましたが、真田家全体から見ればこの難工事の労力を家康に押し付け、その「成果」を頂き、ツケを後の徳川大名に押し付けた「勝ち逃げ」と言えるのではないでしょうか。家康は聖人君子ではありませんが、真田に関しては100%同情してもいい。そして親父の遺したこの危険極まりない「遺産」(不良債権というべきかもしれません)から松代移封で手放せたお兄ちゃんは内心ではほっとしたのではないかと妄想してしまいます。

17:00これにて真田の城めぐりは終了となりました。

ここで旅の疲れを癒すため、湯治の旅に切り替えます。

上田交通で別所温泉に向かいます。ちょうど昨年あらたに導入された

「真田ドリーム号」でした。中は「六文銭」だらけで結構「ラッキー♪」と思いました。向かったあいそめの湯は別所温泉駅のすぐ傍なので助かります。熱い湯船に浸かり、ようやく旅の疲れを癒すことができました。

この後、しなの鉄道・篠ノ井線を乗り継ぎ松本で一泊。翌朝朝一の普通電車を乗り継ぐこと6時間大阪まで帰りました。

 

○上田はいまだ落ちず

怒涛の1日を総括してみますが、余りにも見所が多すぎてまだまだ達成感には程遠い気分でした。何しろ時間スケジュールの関係で実をいうとかなり割愛せざるをえず、上田城に次ぐ石垣の城「松尾古城」矢沢のGGE達の居城「矢沢城」、室賀さんの居城「室賀城」、上田原の古戦場、池波正太郎の真田太平記館とまだまだ足りなかった。これだけの史跡が1自治体でこれだけの残っているのはなかなか他に例が無く、次回上田を行く時は3日くらい時間を取っていこうと思いました。

明後日おまけで

「ここが良かったよ、上田市」

をお送りします。

 

「上田城に狼煙が一本・・・・」