〇三好家の栄枯盛衰・岩倉城

阿波岩倉城は徳島から西部の三好市に移動する間に見つけた城でした。徳島の城はこの吉野川河川沿いに鉄道(徳島線)も道路(徳島自動車道)もこの狭いエリアで集中し、城跡もここに集中する。徳島を構成する枢軸線と言ってもいい。そんな中、徳島自動車道のすぐ傍に城があるのを発見し、「よっしゃ行ったろ!」と思って向かった先がこの阿波岩倉城でした。

 ところが確かに城跡自体は徳島自動車道の傍にあるのですが、城跡へ行く道は狭くなかなか苦心していくことになりました。

県道12号線沿いから「真楽寺」をナビで設定して、新町谷川沿いの小道を進んでいくのですが、途中で道が対向では通行不可能な狭さに、さらに自動車道を一度くぐって、もう一回くぐりなおした先に岩倉城への入口がありました。

ちょうど入口付近が車が転換できるくらいのスペースがあり、ここが駐車場代わりとなっているようです。

森の茂みに入ると堀切を発見。実はここが城跡の形を残す数少ない遺構です。

岩倉城は元々は阿波西部を守る拠点として重要視され、往時にはかなりの規模の大きかった城であるようです。残念ながらその後、その機能は失われ、更に後世による改変によって現在では城跡としてその姿をとどめるのはこの森の中に眠る本丸跡のみです。

三好徳太郎康俊と三好山城守康長らの五輪塔が残っていました。

城跡に残る石は果たして城の残滓かそれとも単なる後世に置かれたものか…そんな侘しい感じの城跡でした。すぐ傍には高速道路を車が走っていくエンジン音だけがこの静寂の空間に響き渡っていました。

岩倉城は歴史が古く、鎌倉時代文永4年(1267)に鎌倉幕府御家人の小笠原長房が築城したと伝わります。城はその後、戦国時代に三好康長の息子康俊が城主となります。康長は三好一族の長老格で、かつて畿内で大きな勢力を誇った三好長慶の叔父にあたる人物です。三好宗家はその後、衰退と織田信長の台頭と共に終焉を迎えましたが、本国阿波にいた康長はその後、織田政権と接近。やがて信長三男の信孝を養子に迎えるほど緊密となることで、阿波まで勢力を伸ばしてきた土佐の戦国大名長曾我部元親と対抗。天正10年(1582)には信長は三好康長をバックアップする形での四国攻めを計画。康長と康俊親子も岩倉城にてその先鋒として準備していたのでした…

本能寺の変勃発で全てが台無しに

この本能寺の変の結果として四国征伐は中止となり、長曾我部元親は息を吹き返して、四国制覇を敢行。かくして岩倉城も落城して、三好康長も康俊もその生涯の終わりも定かではありません…まさに「塞翁が馬」。岩倉城はその後、長宗我部氏の城として整備されましたが、奇しくもこの3年後に今度は羽柴政権による四国征伐で再び落城したのでした。

 

〇アクセス

JR土讃線阿波池田駅から車で約1時間

 

「阿波岩倉城に狼煙が一本…」