前日お好み焼き屋で聞いたとおり比較的空いている駅の北側から駅に入ります。すいません、ミツギ駅方面の電車は、と車掌に聞きかけてあぁ、三次(みよし)ですね、と正しく訂正されます。そういえば昨日も宮島から広島方面に輪行する際、巨大なターミナル駅である広島駅の降車を避けて手前の新白島駅で降りたのですが、ここでもシンシロシマ駅へは、と駅員に尋ねたところ半拍あって新白島(しんはくしま)ですね、と優しく訂正されたことがデジャブしました。

 芸備線へ乗ります。乗った区間はまだ乗客がいましたが、JR西日本より乗客の数が極端に少なくて廃線の危機があるそうです。実際乗った日も芸備線の一部区間で運休にいるようでしたが、その原因となった事故発生時に乗客はいなかった報道されていました。

 さて、吉田郡山城への最寄り駅は吉田口駅なんですが、別に用事があって手前の井原市駅で下車します。目的地は月山富田城の戦いで尼子の三兄弟が降伏したのち連行されて軟禁されたとされる場所、尼子屋敷跡へと向かいます。その前に痛恨の出来事が。その日は四月にしてはとても暑い日で羽織る用にもってきた薄い上着を宿に置いてきたんですが、そのポッケにGARMINEdge830を忘れてきたのでした。ナビも地図の確認もスマホでしてるので問題ないんですが、GPSのログが取れない、走行距離が確認できなくなってしまいました。戻るわけにも行かないので、スマホで場所を確認して向かいます。

 今回訪れた尼子三兄弟が幽閉されていたとされる場所二ヶ所を訪ねました。共に山間の場所で厳しい監視の目もあることながら逃げ出そうと考えたとしてもわかるような、考えられた場所だな、と感じました。元就は助命すると決めた三兄弟を監視はしつつも礼をもって遇していたと思いました。

 そこから北に移動して耕作地の真ん中にポツンと取り残された宍戸元家の墓所へと向かいました。近づいて見たかったのですが、

 このように場所は柵に覆われていて無理でした。

 吉田口駅方面に戻ってやっと毛利元就の本拠地、吉田郡山城へと到着しました。吉田郡山城は山城なのでここまで来たのだから当然登るつもりでしたがここで足は売り切れていました。その時はどれほど走ってきたのか分からなかったのですが、自宅に戻ってから確認すると50キロほど走っていたようです。吉田郡山城に登城してからまだまだ周辺を廻る予定でしたが、足が廻らないので仕方ありません。

 城の入り口付近にある元就を荼毘に付した場所を訪れ、

 続けて元就長子隆元の墓所を訪れます。

 吉川元春、小早川隆景の二人の弟と比べられて家督を継いだときのエピソードなど評価の低い隆元ですが、最近の研究によって評価は覆りつつあります。何よりも輝元を残したことは、その輝元の評価がこれまた微妙なことだとしても隆元を評価するところです。隆元は元就に先立って毒殺されます。

 元就の墓所へと向かおうとするとこれまた工事のため通行止めの看板がでていました。幸いにも迂回路があったので墓所には訪れることができたのですが、足が売り切れ、またも通行止めの看板を見て、元就の墓所を見たら市内に戻ろう、後はまたの機会にしようと決めました。

 赤いコーンがなければもっと良かったんですが、とりあえず設けられた迂回路から登って来れました。

 百万一心の碑。元就が吉田郡山城の拡張工事の際、人柱にされようとしていたのを止めて埋めたとされる言葉の碑です。その意味はやや文字を崩して一日一力一心と読めるようにし「日を一にし、力を一にし、心一にする」事によって何事にもなし得ることができる、という言葉です。三兄弟の結束を三矢の教えによって伝え、また父と兄を酒毒によって失い、大内派、尼子派といった家臣団との軋轢を乗り越え中国地方に覇を唱えることとなった元就なりの言葉ように思いました。

 源頼朝にも侍った大江広元を祖とし、安芸の一国人から大内、尼子両家を平らげた元就は75歳の長命を得てここで眠っています。むむ、画像が傾いとりますな。思った以上に限界だったのかも。

 元就の銅像を撮影して後ろ髪を引かれつつも撤収します。素直に輪行で帰れば良かったんですが、下り基調だからとここから30キロほど自走で帰るも向かい風にやられて失敗、散々でしたがなんとか広島市内に帰り着きました。次回来るときはしっかり体力作りをしてから望みたいと思います。