小学校の修学旅行は広島でした。が、ほぼ記憶なし。なんか舟(高速船)に乗って興味がないから本を開いていたようなかすかな記憶があるくらいで、安芸の宮島というのは゛秋゛の宮島と勘違いしていてきっと秋にはいい観光地なんだろうと、思っていた時期もありました。

 いつもどおり早く大阪を出てきたのでうっかり通勤時間帯に広島に到着してしまいました。さらには工事中でさらにごったがえす南口から出ようとしてしまい、さらに混乱します。可能な限り邪魔にならないように、人に当たらないようにゴメンなさいを繰り返してようやく広島駅を出ます。

 宿は駅近なので早々にいらない荷物を預けて走り出します。最初に向かったのは広島城です。

 毛利氏の本拠吉田郡山城から秀吉に広島にあたらしい城を築くことを薦められた輝元が築いた城です。関ヶ原の敗戦の後、防長へと押し込められた毛利氏が去った後には豊臣の猛将福島正則が入ります。しかしその正則も警戒する徳川幕府から目を付けられやがて咎められて信濃川中島に捨て扶持を与えられて移封となります。一説には流罪とも言われるそうです。その後は浅野氏が入り城は残ります。ただ二次大戦の原爆によって国宝であった天守は崩壊、いまは復元天守がそびえ立ちます。

 さて訪れた日はG7が近いこともあって市内は景観だらけの警戒モードでした。ま、こちらはさして気にならないので町中を抜け西へと向かいます。

 最初の目的地に到着しました。洞雲寺です。 

 ここには厳島合戦で毛利元就と戦い敗北した陶晴賢の墓所があります。大寧寺の変に加担した側の毛利元就は勢力の拡大を警戒する未だに大内領を完全掌握できていない陶晴賢から警戒され始めます。ついには元就の頭ごなしに安芸の国人衆とつながりを作ろうとするに及んで元就は晴賢と断交します。いまもって、何故国力兵力に勝る陶方が元就の本拠たる郡山に押し寄せるわけでもなく厳島にこだわったのかなかなか理解に苦しむところですが、西国一の侍大将と言われた陶晴賢を厳島に誘い出し二万とも言われた兵力をわずか三千の兵で勝利します。いかに大兵力を擁しようとも機動できなければ戦力にならないということの所作です。

 負けるはずのなかった戦いで敗れた晴賢はここで静かに眠っています。

 さらに晴賢の首実検を行ったという桜尾城に寄ります。一際小さく丘のような場所ですが遺構もなく公園になっていました。

 さてフェリーで宮島に渡ります。イメージしていたのと違って意外にゴツゴツした島でした。乗船時間はとても短く、まわりは家族連れもいれば外国からの観光客も多い感じでした。

 フェリーから厳島神社の大鳥居を撮影します。

 島に上陸してからは、ほかの乗船客がおそらく厳島神社方向に向かうのを尻目に厳島合戦の際、陶方の攻略目標になった宮尾城跡に向かいました。急峻と表現していい階段を上ります。神社と猫の額のように狭い場所になっていました。

 上陸してしばらく厳島神社に参詣したりうろうろしているうちに干潮になってきました。

 さて二十年ぶりくらいに宮島に来た理由のひとつとして当時食べたあなご飯があんまりだったんです。弁当だったのかどうだったのか記憶も定かではないのですが、もう一度確かめたくて島内の食堂に入って上あなご飯を頼んでみました。

 結果は、うまし。とても美味しかったです。食欲を満たし記憶の上書きにも成功し、安心して本土側に戻り、輪行で市内に戻りました。夜は宿近くのお好み焼きに舌鼓を打ち、多少の酔いも手伝って良い眠りにつくことができました。