天候回復しました。若松城に入られる時間に合わせて宿を出ます。元は黒川城といい、長く会津を治めてきた葦名氏の居城となっていましたが、摺上原の戦いで蘆名氏は滅亡、伊達政宗の版図になります。しかしそれも関白豊臣秀吉に取り上げられて伊達政宗は岩出山に移封になってしまいます。その後会津に入ってきたのは信長の娘婿にして勇将の名高い蒲生氏郷です。氏郷は町の名を黒川から若松へ、黒川城を鶴ヶ城と改めました。氏郷の幼名から付けられた、と以前は聞いていましたがいまではどうなんでしょうか。

 さて城を北出丸の大手門から攻め込みました。この門は戊辰戦争の際、乾退助、後の板垣退助が攻撃するもついには突破できなかったと伝わる門です。この石垣の反対側は階段状になっており、そこからは銃撃し放題なんですよね。無策に突撃を繰り返しても抜けなかったというのも頷けます。

 旧幕府軍からの視点です。階段を同じように上ってみました。

 さて城内に自転車を止めてまずは本丸へと向かいます。

 けっこう作業員風な人がうろうろしているなと、と思ったら修復中でした。冬の間に済ませてっていうことらしいです。

 鶴ヶ城は戊辰戦争で籠城戦を戦い抜き、損傷の激しさから解体されました。

 戊辰戦争直後の鶴ヶ城の姿です。砲弾の後が痛々しく傾いています。現在は復興天守が建っていますが前述の通り修復中で中には入れませんでした。

 城内に残る案内板。上杉景勝が会津に入って義父謙信を安置したと伝えられる場所です。しかし関ヶ原の戦いの敗北の後、上杉氏は会津から米沢の地に転封となり、謙信の遺骸もまた米沢に移ることになります。

 これはまた会津に来なあかんなあ、とぼやきながら一通り城内をぐるぐる見回って一旦会津若松駅へ。そこから輪行で猪苗代駅へと向かいました。

 猪苗代は野口英世の故郷だったんですね。子供の時に不注意からやけどで左の手のひらが開かなくなり、その後手術で長い間使い物にならなかった左手が開くようになり、それがもとで医学を志した。医者になってからは黄熱病の撲滅に苦心し、自身も感染して亡くなった。何も見ないで昔の記憶を辿るとそういう感じなのでしょうか。いまはとても便利なのでウィキペディアなんぞを見てみるとなかなか放蕩な人物であったようです。それでも世界的な人には違いないですね。

 時間があまりないので猪苗代城へと向かいます。きれいに公園化されていますが人気はないです。

 公園から磐梯山が見えたので一枚パチリ。

 公園側には自分も興味がないので城跡を登ります。雪が飲みっていて苦戦しましたが、遺構はそれなりに残っていて楽しめました。さらに北上して土津神社を目指します。ところがここも休業中。神社が休みってあるのかえ、としみじみ思ってしまい、写真すらも撮らずとりあえずさらに少し北上します。

 保科正之墓所です。

 徳川二代将軍秀忠の落胤、三代将軍家光の腹違いの弟です。

 徳川宗家の為に尽力し、ここ会津の地に眠っています。江戸からしたら鬼門の鬼門に当たるんですかね。

 会津中将の碑。正之が残した遺訓は幕末の容保を縛り付けることになります。

 グーグルマップを見ると猪苗代方面から会津へは下り基調の道だったのでここから自走します。時間に追われています。途中磐梯山をまたもパチリ。雄大です。このあたりで伊達政宗と葦名との戦い摺上原の戦いが行われたそうなのですが、なんの遺構も碑もないようですので空気だけ感じ取って、先を急ぎます。

 ほぼ唯一と言っていい遺跡、摺上原の戦いで戦死した蘆名氏の家臣三名の忠誠心を後世に伝えるために建てられた石碑、三忠碑。雪の中ぽつんと。あれかっと雪をかき分ける勢いで向かいました。やはり雪解けを待つべきでした。

 そのひとりである金上遠江守盛備の碑。

 そろそろ腹ごしらえをと、やすらぎの郷会津村前の十文字屋にて磐梯カツ丼を食らいます。さくさくでとても美味しかったのですが、さすがに量が多すぎたかも。まだまだ下り基調の道をさらに急ぎます。