太閤豊臣秀吉の死後、豊臣政権を支える五大老のひとりとして、徳川家康は野心をむき出しにしていきます。秀吉が決めた約束を次々に破り、非難には嘯き、知らんぷりをしたかと思えば急に真剣に怒っているふりをする。会津120万石の太守となっている上杉景勝にいちゃもんをつけ、征討の兵を挙げます。いわゆる会津征伐ですが、下野小山まできた時、上方で石田三成が挙兵します。家康は三成を征討するために結城秀康を残し上方へと引き返します。上杉景勝は以前よりしこりがあった最上領へ勢力拡大の兵を向けました。

  その舞台となった長谷堂城へ向かう前に腹拵えをします。

 そば処三津屋本店に入店します。大板そばというメニューに激しく惹かれましたがおなかの具合を考慮して暖かい天ぷら蕎麦にしました。

 山形市内、つまり山形城と長谷堂城の距離は10キロもなく、近いです。西の庄内地方と南の米沢から侵攻された最上義光は甥の伊達政宗に援軍を要請します。

 一方の上杉軍は名将の名高い直江兼続が率い、たったの1日で山形城西に位置する畑谷城を落とし、長谷堂城を囲みます。

 直江兼続本陣跡の看板があります。小高い丘から長谷堂城を囲みつつ、山形城の情勢も確認できる場所です。

 兼続本陣からの長谷堂城遠景です。最上の重臣志村光安以下1000人が守る長谷堂城に一万八千もの上杉軍が攻囲します。のちに敵将である兼続から褒美を遣わされるほどの鮭延秀綱らの奮戦等もあり長谷堂城は容易には落ちず、やがて兼続のもとに関ヶ原での西軍の敗報がもたらされます。

 戦場となった長谷堂城周辺には史跡が残されており、最上義光の妹義姫、つまり伊達政宗の母の警備役として仕えた武将加藤掃部左衛門清次の碑や、

 上杉軍の武将上泉主水泰綱が壮絶な討死を遂げたところにある主水塚などここで戦いがあったことを残す証しがあります。

 上杉軍は最上領から撤退します。壮絶な撤退戦が展開されますが振り切って上杉軍は自領に戻ります。その後最上義光は勝利側として出羽57万石の大大名となります。しかし、その後お家騒動、最上騒動ののち最上氏は改易されてしまいます。豊臣と徳川、それぞれに近づくために婚姻政策をしたりそれぞれの大名子弟に家やら秀やら忠やら偏諱のあとがあり、無事相続がされても今度は男子に恵まれなかったり主君の急死やらでお家断絶の危機を乗り越えて明治を迎えた大名家や旗本には苦心があったと思います。最上家は改易されて近江に残されましたが、いまも山形は最上氏の色が残っていると感じられる場所でした。また春の時期に訪れたいと思う山形でした。ただ、遠いんだな、これが。